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ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑨『年表・第三期(1905年~)・梁啓超(りょう・けいちょう)氏との出会い/大隈・犬養両翁と日本政界要人らとの面会』

ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』
ベトナム志士義人伝シリーズ

 

梁啓超(りょう・けいちょう)氏との出会い


 その翌日、梁啓超氏に宛てた私の自己紹介書と、それ以外に、
 ≪落地一声哭 即巳相知 読書十年眼 達成通家 (=生まれる前から既に十分相知り、書を読み幾年でもう親 戚同然の間柄)≫ 
 この文章を収めた手紙を認めた。 梁啓超氏は、此の手紙の文章を読み甚く感動し、自ら玄関まで出迎えて我らを座に上げてくれた。その時の会談は、タン・バッ・ホー氏が主に広東語の通訳をし、肚を割って心情を伝えようという時は筆談をした。梁氏は、話は尽きずに時間が足りないからと言って、 我々との後日の再会を約束した。

 その翌日、梁啓超氏の方から我々の滞在先を訪ねてくれた。同行者は、梁氏と同じ党の党員で日本留学中の中国人学生2人。お互い筆談を交わすこと3時間余、この会談は非常に意義深い内容だったので、概要を纏めて置く。
 
 『ベトナムに独立の日が来ないなど心配する必要無し。それより、自国民に独立する資格無きことを心配せよ。光復(=独立)計画は、1)国内の実力、
2)両広(=広東・広西)の援助、3)日本からの応援の3つが重要。だがもし、ベトナム国内の実力が無ければ他の2条件は、これ幸いと為らず。』
 『ベトナム国内の実力とは、民の気力と民度、それに人材のこと。両広は軍隊の武器援助。日本は外交への支援のみ。要するに我々の国が独立をするには列強の承認が必要なのだが、日本はアジアの強国だから、先ず日本から承認を貰えば良い。』

 日本の軍事後援を希望する我らの心情に対しては、
 『それは上策ではない。日本の軍隊が一度自国領土に入ったら、もう一ミリも追い返すことは敵わず。そうなれば祖国光復事業など霧消する。貴兄は、独立機会の有無を心配せず、唯自国に人材無きこと、故にやがて独立機会を逃すことを心配なされよ。』

 数日後に再び梁氏の宅に伺い、我々の本来の渡日目的である武器援助要請の為、日本の政治家を紹介して欲しいと頼んでみた。梁氏は、5月中旬頃に大隈重信伯の所へ私を連れて行くと返答した。大隈伯は、明治維新の功臣で2度の首相就任経験があり、現在は日本進歩党党首で上院議員の実力者だった。 そして当日、約束通り梁氏の宅に行くと、彼は言った。
 「大隈重信伯に面会を希望する場合、先に犬養毅子爵を通さねばなりません。犬養子爵は元文部大臣、現在は進歩党の総務であり、大隈伯の強力な右腕です。この二人が、 今の日本の民党界で実権を握っています。」

 

大隈・犬養両翁と日本政界要人らとの面会


 その日、私と従者2名は、梁氏と共に東京へ向かった。
 先に
犬養毅子爵に来訪を告げ、 犬養翁の案内で大隈翁に面会を得た。初対面にも拘らず、お二人共に終始笑顔を絶やさず機嫌が良かった。幾つか会話を交わした後で、私が日本の援助に触れると、犬養子爵が言った。
 「我国の援助を求めに来られたというが、貴国の統領に関してご教示願いたい。例えば君主国なら統領に王族の方がいらっしゃる筈だ。その事に関して如何お考えですかな。」
 これには、「勿論、居ます。」と私は答え、ポケットからフエのフランス欽使へ提出したクオン・デ候の旅行申請書と、この東宮の君の写真を取り出して皆に見せた。犬養子爵は、
 「このお方を出国させなさい。さもなければ、早晩フランス側の手中に堕ちてしまうだろう。」
 私は、「仰る通りです。私共も既にその手筈を整えて居る所です。」
 大隈、犬養、梁の3人は、顔を見合わせると、時間にして多分3分間位か何をか話合い、 その後でこう言った。
 「日本の民党が貴兄らを応援することは可能だ。だが兵力援助への言及は、今は時期が悪い。戦争が続く今の国際情勢に於いては、単に日本とフランス間の問題だけに留まらず、欧州対アジア間の競争問題へ発展する可能性も否定できない。何故なら、もし日本が貴国を援助するとなれば、当然フランスに対し宣戦布告するが、そうなれば戦火は一気に全地球規模へ飛び火するだろう。しかし、現在の日本には、全欧州と全面対決する力は無い。貴兄らは今は先ず以て隠忍自重し、機会を待ってはどうだろうか。」
 「我らが隠忍自重出来るくらいなら、なぜ遥々苦労して貴国に渡り来て嘆く必要があったでしょうか!」
 私がこう返答すると、大隈伯は、
 「インド、ポーランド、エジプト、フィリピンも亡国となったが、それらの国々と比べてもベトナムの様に厳重に目隠しされてる国は無かろう。諸君らが日本に来てくれたお蔭で、 我々は初めてベトナム人の在るを知った。諸君らは、今は国内人士へ向けて、国を捨て外国へ出ることを鼓舞しなさい。兎も角彼らの目耳を開けてやるのだ。何処の国、何の仕事かは問わず、呼吸した空気が肺に送り込まれ精神が窒息死しないようにすることが、亡国に直面した貴国の惨状を救う唯一の緊急課題であろう。」
 
 ここに於いて、犬養毅翁が訊ねたのは、
 「貴兄らは、革命党を結成したのだろうか?」
 犬養翁のこの言葉を聞いた時、私は死ぬ程の恥ずかしさを覚えた。ベトナム国内には今だ革命党と呼べる団体は誕生していなかったが、止むを得ずにこう返答した。
 「組織なら無論あります。しかし、強権圧政の下に於いては、未だ何らの発展も見ず、 単に党と言う名のものが有るだけに止まっています。」
 大隈翁は、「貴国の党人を日本へ連れて来られれば、全員を収用して差し上げよう。我ら日本人は、義侠心と愛国心を特に重んじる民族だ。そして、もし御同意ならば貴兄らへは住居を提供しよう。外賓として待遇せば、生活費には困らないでしょう。」

 大隈伯の堂々とした自負に溢れた表情を前に、私は気恥ずかしさを覚え、言葉を絞り出した。
 「波風に揺られ、幾万里を越えて此処に辿り着いたのは、偏えに祖国と我が民族を死の滅亡から救う為、その計画の実行の為であります。今もし我らが、我身一つの良遇に甘んじてしまえば、たとえ祖国が仇敵の手中にあれども、もう気概を失い前に進む事を諦めるに違いない。そうなった時、皆さんがもうその様な人間を尊重する意味など何も無いでしょう。」

 私の隣に座っていた梁啓超氏は、紙に『此人大可敬』の5文字を書き、これを大隈翁に手渡した。犬養翁がそれを眺めていた時、期せず犬養夫人が扇を手に座に出て来て、我ら客人に挨拶をすると、手の扇を私に渡して何か文字を書いて欲しいと言った。私は、『四方風動 惟乃之休』の8文字を書いて夫人へ扇を返した。
 この座の中にはもう一人、
柏原文太郎(かしわばら ぶんたろう)氏という衆議院議員が居り、犬養翁や大隈翁、梁氏らと共に私の書いた筆談文章に全て目を通した後でこう言った。
 「真に、皆さんをこうして目の前にしているが、まるで古の英傑伝を読んでいる様です。 何故なら、我が扶桑の国に面会に来られたベトナム人識者は貴方方が初めてですから。」
 この言葉で、私はなんとも惨めな気持ちになって、悔しさを噛み締めた。国内には先のことなど考える人が無いところへ、功名且つ徹底したフランス政府の囲い込み政策の見事な成果、それが我が祖国であろうとは。

 この日、日本人との初めての接触だった面会は、正午に始まり夜になってやっとお開きとなった。そして、横浜へ戻ってから数日後に再び梁啓超氏から招待を受けたので邸へ伺った。その時は、我々の計画の詳細について筆談を交わしたので、その概要を下記に記して置く。

 『中国とベトナムの関係は、地理、歴史、人種、どれをとっても既に2千余年もの長い時間ずっと兄弟以上の間柄にある。目の前で瀕死状態に陥る弟を助けない兄があるものか。 現在の我が清朝廷の無策ぶりには心を痛めて居るところ。私は、そのことを踏まえて熟考して見たが、今現在貴国ベトナムには2つの策しかない。だから、それを御伝えしたい。
 先ず一つに、貴国の悲惨な現状を描写し尽し、フランス人による国家民族殲滅の陰謀を暴く為にも、読む者の心を突き刺す様な痛切、且つ激烈な文章を作成して、これを世界各国の人々へ知らせるべきこと。世界世論を喚起して、その世論を貴兄らの外交手段、橋渡し役とする。 もう一つは、貴兄が一旦帰国するか或いは文書を送り、国許の青年層へ出奔と海外留学を鼓舞すること。それにより、更なる民意を興して民智を上げる基盤とする。
 以上2策以外は臥薪嘗胆、ひたすら時機を待つしかない。何れ我が清国が力を付けて来れば、外国勢に対して戦争を起こすことは必至であり、その時の第一砲は在越フランス軍へ発射される。何故なら、貴国と我国の領土は接して居り、越南-広西線と越南-雲南線という2つの鉄道線を有する獅子身中の虫でもあり、その事は我国の志士、義士らは片時も忘れることは無い。だから、今は辛抱して時機を待たれよ。』

 この日、この会談から、私の耳目は多くを吸収し、初めて大きく見開かれた。同時に、自分が持っていたこれまでの思想、経営方法とは、如何に大雑把で全く現実性が無かったことを悔いた。会談を終え、梁氏の宅を辞して宿に戻ってから、直ぐ様『ベトナム亡国史』 の執筆に取り掛かった。これを書き終えてから再び急いで梁氏へ原稿を見せに行き、そのまま原稿の印刷をお願いすると、梁氏は即答でこれを引き受けてくれた。そして、そのたった一週間後に印刷が出来て来たので、梁氏の家で本を受け取って、別れの挨拶を済まして早速帰国の途へ上がったのだった。



本の登場人物・時代背景に関する補足説明(7)



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