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潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判(じはん)』から始まる-”正義の歴史修正主義”

 先に投稿した記事で、私が翻訳出版したファン・ボイ・チャウ著『自判(じはん)』(2024年7月7日)をお知らせしました。
 近いうちにここ≪note≫にも順次分割して投稿しますので、是非一人でも多くの方に読んで頂きたいです。ここから再度日本で活発な議論を経て、やっと”歴史を修正”する準備に入るのだと信じたいです。

 戦後利権者の都合によって故意に捻じ曲げられた歴史が修正されなければ、故人は浮かばれないです。『自判(じはん)』を読めば、ファン・ボイ・チャウというベトナム革命家の人物像が、彼の死後、如何に捏造され、雑言が流布され、戦後の日越両国であらゆる宣伝に利用されて来たことが明確に判ります。

 『自判』が書かれた経緯は依然より沢山関連記事を投稿してるので是非ご一読頂ければと思いますが、今一度そのポジションを明確にするために、長岡新次郎先生と川本邦衛先生の「ヴェトナム亡国史 他」(1966)から下記の文章を抜粋させて頂きます。⇩ 

『潘佩珠年表』
 死の2,3年前(と思われる)から、潘佩珠は自分の生涯の事件を「獄中記」より詳しく歴史的に記述し、さらに広東で逮捕された事件の後より、上海で再びフランス側に捕らえられるまでの生活を記している。生前、潘佩珠は秘書に言いつけて、原稿全部を2つの部分に分け、2つの印刷所にあずけておいた。このようなものを書かないことが総督府から出された特赦の条件であったので、密偵の知るところとなれば、潘佩珠は容易に獄中に引き戻されるであろうし、少なくとも原稿が破棄されることがわかっていたからである。前半冒頭に「自批判」という一文があったので、ヴェトナム語訳も最初はこの名によって刊行されたが、後に潘佩珠自身が与えた書名『潘佩珠年表』に改められた。本書所収の「潘佩珠小史」は、多くこれに依拠した。

「ヴェトナム亡国史 他」より

 この様に⇧、時のベトナム側から出された”大本営発表”🤐😑に依れば、1956年フエで出版の『自判』⇒1957年ハノイで出版の『潘佩珠年表』は恰も同一内容であるかのようですが、これは辻褄が合わないことが1956年フエで出版された『自判』の出版社挨拶文から判明します。⇩

 英明(アイン・ミン)書館 出版挨拶文

 1946年初頭、越盟(ベト・ミン)が政権を簒奪した後、黄叔抗(フイン・トゥック・カイン)氏はハノイへ向かった。 その為、トゥック・カイン氏が順化(フエ)に残していった自宅の諸事と、氏所有の書籍や資料は、巣南(サオ・ナム=ファン・ボイ・チャウの号)氏の一部遺稿と一緒に私達が管理を していた。サオ・ナム氏の遺稿については、出版権をサオ・ナム氏の甥ファン・ギ・デ氏から得ていたので、遺稿とトゥック・カイン氏の書籍等は全て纏めてベン・グ(フエ)のサオ・ナム 氏の祭壇が安置された邸の箪笥の中に預けてあった。
 だが、それから間もなく、祖国の全土で戦争が勃発した。
 
 預けてあった遺稿は、多少は疎開先へ避難する際に持って行ったが、フエに残してあった書籍や遺稿類は、大方が激しい戦火により滅茶苦茶に破壊されていた。しかし、ほんの僅かだけだが、幸運にも友人であるヴォ・ニュ・グエン氏とヴォ・ニュ・ボン氏が間一髪で持ち出すことが出来、保管してくれて居た。この時、戦火に焼かれるのを免れたサオ・ナム 氏の貴重な遺稿の中に、この『自判』があった。
 サオ・ナム氏は、私史を1929年頃から漢語で書き始めた。そして、自ら国文(=現代の アルファベット化文字)へ翻訳をし、その手書き原稿をミン・ビエン(=フイン・トゥック・カインの筆名・号)氏が自らの手で製本をした。後の1938年、私達はサオ・ナム氏からの指示で国文タイプをして国文版4部を完成させ、この内の2部はサオ・ナム氏、残りの2部はミ ン・ビエン氏が所有した。そして、その当時に『市民の声(Báo Tiếng Dân)』紙の印刷所へ しばしば本を借りに出入りしていた日本人留学生へ、ミン・ビエン氏が自己所有の国文版 一冊を贈呈した(1943年)。ここから判るように、ミン・ビエン氏がハノイへ発つ前に私達に預けていったもの、それは残りの国文版一部と原稿(漢語と国文)一部。要するに、本書の原本は正真正銘ファン・サオ・ナム氏が今から27年前に自身の手で書いたものである。(中略)
 1946年頃、ファン・ギ・デ氏(1947年フエで死去)が中部広義(クアン・ガイ)の仲間と共にサオ・ナム氏の遺稿の印刷計画を立てた時、私達へも協力要請があった。けれども、 その時は田舎へ疎開しなければならず、無念ではあったが、彼等へ原稿と資料を提供しただけだった。彼らは、私達が提供した原稿を元に、苦労してサオ・ナム氏の『自判』初版 (上下2巻組)を印刷し、製本まで終えた。そして、さあこれから民間へ流通するぞ、という段階で、検閲を称した越盟(ベト・ミン)に全部を押収された上、更に手元にあった原稿と資料まで全て廃棄させられたのだった。(中略)
 
 漸く最近になってから、郊外へ通じる交通利便が整って来た。そのお陰で、もう何年もの間、厳重に田舎で秘匿していた国文(アルファベット化文字)翻訳の原稿類を再びこの手にした。≪目隠しされ、暗黒の闇に閉じ込められていた我が民族に道を拓き、僅かな希望の燈りを灯した≫、我が祖国の志士であり大革命家であるサオ・ナム=ファン・ボイ・チ ャウ氏の、19世紀終わりから20世紀の3分の一に相当する期間に亘った壮絶なる人生。 その真実の物語の数々をこうして出版することで、我ら民族の記憶の中に永遠に留めて置きたいと思う。

『自判』1956、フエ

 この文章⇧を整理すれば;
1)ファン・ボイ・チャウの遺稿を守って居た南ベトナムの後輩達にとっての越盟(ベト・ミン)は、1946年初頭に政権を簒奪した簒奪者。
2)遺稿の出版権は、サオ・ナム氏の甥ファン・ギ・デ氏から得ていたフエの『英明書館』に属す。
3)1945年以降のフランス軍とべト・ミン軍の交戦により、フエに残してあった書籍や遺稿類は大方が激しい戦火により破壊された。戦火に焼かれるのを免れた一部の遺稿の中に『自判』があった。
4)ファン・ボイ・チャウが1929年頃から漢語で書き始め、1938年に国文版4部が完成。2部はファン・ボイ・チャウ、残り2部はミン・ビエン氏が所有した。
 1946年頃、ファン・ボイ・チャウの甥、ファン・ギ・デ氏が『自判』初版 (上下2巻組)を印刷し製本を終えたが、越盟(ベト・ミン)が検閲を称して全て押収、手元の原稿と資料も強制廃棄。
4)1955年、ゴ・ディン・ジェム大統領下で南ベトナムが建国され、漸く郊外へ通じる交通利便が整って来たお陰で、厳重に田舎で秘匿していた国文(アルファベット化文字)翻訳の原稿類を再び入手できた英明書館グループが、1956年にフエで『自判』を出版した。

 このように⇧なると思います。。。
 要するに、、、ベト・ミンは、1946年に『自判』の存在を把握し、印刷出版の噂を聞き付けて乗り込んで来て、堂々と”焚書”をした訳です。🤐 ”あー、危なかったよ、これでもう安心、安心。。”などと思ってたのか。。でも残念(?)な事に、国文版の『自判』原稿が一部だけ残ってて、それが1956年フエで英明書館によって『自判』として発行されちゃった。。。 
 ”じゃあ、でもなんで当時べト・ミンのお膝元の北部ベトナム・ハノイで、翌年(1957)に『潘佩珠年表=自判(?)』が出版されるのさ??” と疑問に思うと思います。
 英明書館の挨拶文にあるように、「サオ・ナム氏は、氏の幼少期から出洋期、そして帰国までの全生涯を書き尽くしたにも 拘わらず、本の題名を只一言『自判』のみとした」と、ファン・ボイ・チャウ自身がつけた自伝の題名は明確に『自判』でしたし。

 さてその謎が、『自判』の中の「ファン・ボイ・チャウ氏による序文」の後半部分から推察できます。⇩ 

…西洋の書では、『人血を以て人血を洗わずば、社会改造は為し得ない』と言い、『失敗は成功の父』とも言う。これは正しいだろう。その上で敢えて、我が≪ファン・ボイ・チャウ史≫は後世の見本たり得るだろうか。
 “おい、お前がまだ死なないでいるうちに、お前の自伝を急いで書き終えてしまえよ!” と、何度も足を運び催告してくれた愛すべき朋友の恩、謹んで承り、ここに草稿を書き上 げ、標題を『潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)年表』とした。

 ≪自判の言≫
・・・・・・

『自判』1956、フエ

 えーと、要するに単純に考えて、、べト・ミンが1946年に完全に焚書したと思い込んでいたファン・ボイ・チャウの『自判』が、1956年の南ベトナム下で出版されちゃった訳です。焦った北ベトナム関係者は、急いで翌年に版権なんか無視して北で改竄版を出版しちゃえ、となったのだと思います。しかし『英明書館による挨拶文』は如何にも不都合、ベト・ミン=簒奪者とか書いて有るし。。(笑)結局、『英明書館による挨拶文』を完全に消去し、題名『自判』を改竄して標題の『年表』を題名に使った、、、どうもそんな経緯かと推察すれば、辻褄が合います。

 さて、当時の北ベトナムにとって、もう一つ大きな不都合な事実が『英明書館による挨拶文』には書いて有りました。それがこれ⇩です。

 近年、多くの新聞記者や作家がサオ・ナム氏の生涯について語っているが、その殆どが真実と異なり、それらが及ぼす害は少なくない。どうか、各新聞記者、作家の方々には、本書を参考にして速やかに間違いを訂正し、真実を語り報道して貰いたい。もし今後作り話 が独り歩きし始めれば、将来に亘って我ら民族の革命史が損失を被り続ける可能性がある。

『自判』1956,フエ

  。。。要するに、、ファン・ボイ・チャウが死去した1940年以後のベトナム全土に於いて、国内外のメディアや文壇界隈で非関係者による事実と完全に異なる『ファン・ボイ・チャウ革命史』や『ファン・ボイ・チャウの生涯』商業主義の中で捏造されていた。。。

 ならば、それら出版物や情報を時のベトナム政府や文官から貰い続けて来た日本の、『ベトナム植民地解放史』や『ファン・ボイ・チャウの生涯』の研究というものは、実際のファン・ボイ・チャウと接していた英明書館グループが「殆どが真実と異なり、それらが及ぼす害は少なくない」とまで断定した内容だった可能性が大きいのです。

 それが私が、「『自判(じはん)』から始まる-”正義の歴史修正主義”」と掲題に挙げた理由です。
 かの国では、今はそんなことは出来ません。
 だからこそ、日本からそれを発信すべきです。

 それが、何度も繰り返しますが、幾度もの焚書の危機を乗り越えたファン・ボイ・チャウ『自判』の漢語原本を、一か八かの懸けで1964年頃に内海三八郎氏へ送付した、ファン・ボイ・チャウの後輩・ベトナム志士達の想いに報いることになり、又、日本にとっては、大東亜戦争に被せられた数々の汚名や不名誉を払拭することにも繋がると信じています。😊😊😊

 

 

 

 
 

 

 

 
 
 

 

 
 
 
 

 

 

 


  

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