見出し画像

ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑱『年表・第三期(1905年~)・暹羅(シャム=タイ)農業で生活す/『聨亜芻言(リエン・ア・ソ・ゴン)』/ベトナム光復会の設立/ベトナム国旗/軍用票の発行』

ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』
ベトナム英雄革命家 クオン・デ候 祖国解放に捧げた生涯

******************

暹羅(シャム=タイ)農業で生活す


 庚申(1910)年9月、広東を引き払ってタイへ行った。
 3度目のタイ、この時は伍子胥 (ご・ししょ)を習って彼の地で一農耕人になるつもりだった。降る雨で洗髪、風で梳髪、足は汚れ手は泥だらけの毎日を送るのだから、そんな農作業をも厭わない4、5人が私と同行した。
 
 その中で特に書き留めて置きたい人がいる。 名を二芳(ハイ・フオン)氏。無学者で文字を全く知らなかったが、生来男気が凄まじく強い男だった。幼時フランス人に連れられ香港へ行き、西洋料理を学んだ。腕前が良く、 ≪仏国洋行≫の調理長として高給で雇われていたが、未婚の独身男で、香港の同国人の面倒をよく見ていた。香港で≪越南商団≫を設立した時は、彼からの寄付が最も多く、 毎月きっちり5元が届き、一度も欠けたことが無かった。我らが語る革命話へ手を叩いて小躍りし、“いつかは厨房仕事の日々から抜け出し、一兵卒となって戦ってみたいものだ” との想いを漏らしていた。香港で働いていた10人程の同国人は、ハイ・フォン氏の愛国心発揚を見て感激したものだった。
 私が香港へ行ってタイ行きを誘った時、彼は即刻これに同意して、更に自身で熱心に同業者を勧誘して3人を加えた。彼らは、後日ダン・トゥ・キン氏と共に伴忱(バン・シン)での開墾事業に勢を出し、早朝から夜中、雨の日も熱暑の日も歓んで毎日働いていた。以前の西洋レストランのコック服にぶかぶかの西洋靴を履いていた時に比べると別人の様であり、自己の利益など丸っきり顧みない、真の義に生きた仁士だった。

 9月下旬にタイ国首都バンコックに着いた我々は、望み通り一生涯をタイで過ごすつもりで、≪十年生養 十年教訓≫の志を立てた。祖国を出奔してからこれまで為し得たのは取るに足らぬ小事のみだったと、この時に振り返って後悔をし、己を見つめ直す時期になった。
 タイに着いた時には、ダン・ゴ・シン君やダン・トゥ・キン君、ビン・ロン君らが土地の賃貸交渉を終えるなど準備は殆ど整っていたので、私は一昨年お会いした老親王に謁見した。 老親王へ我が党の現況を詳しく説明を申し上げ、タイの土地賃貸と居住許可を得て我が党勢を養いたいので、タイ政府下での保護を願い出た。これに、老親王は大変喜んで、皇弟の陸軍少将を呼び、我らの件を一任した。それから、少将の自邸へ案内されて行くと、 少将夫人ご臨席の上で立派な宴席、夫人は親しく食事を勧めてくれる程の歓待ぶりであり、ご夫妻揃ってこの様に約束をしてくれた。
1) 新規タイに来る者には、初月分の食費として一人5バーツを支給する。それから先は自分で農業によって稼ぎ出すこと。
2) 農地に関しては、タイ政府から技師を派遣する。伴忱(バン・シン)は山岳農地だが、 傍に大河もあり水利の便良く、土地も肥沃。首都バンコックから徒歩で4日強あるので今までは未開墾の森林。それ故に鉄道が未開通だから、結果フランス密偵は追って来ない。
3) 農業用地は既に準備万端、その他農機具や種籾等は全て支給する。耕作に牛や水牛が必要なら、周辺の村々から借りられる。王家から口を利けば、国民は喜んで貸し出すだろう。
4) 日本で解散令を受けたベトナム人学生は、皆が苦学に耐えた人材だ。この地で農業労働を学ぶなど訳ない筈だ。

 私自身、生まれてから一度も鍬を握ったことは無かったが、ボロ服を纏い破れ笠を被って野菜を摘み根菜を拾うなど、中々手際が良かった。この時のタイで、愛国歌三篇を創作した。大声張り上げ水牛を追い、愛国歌を喚きながら水田を進む我らへ、脇畔道を通るタイ人が立ち止まって拍手喝采を送り、≪クオン・ズオン(=タイでベトナム人を指す)≫の歌声に聴き入る。奇観ではあるが、妙な親しみが湧くのだった。

 タイ農業開拓団の中に、朴訥とし頑固な古武士風の老兵が一人いた。名を固坤(コ・コン)といい、若い時に科挙武科試験で≪武秀才≫位に合格して、植民地政府軍の習兵隊長職に就いていた。宜義(ハム・ギ)甲甲(1885)年、フランス軍がゲ・アン省城を占領した時、コン氏は習兵を引率してゲ・アンに駐留したが、この時にグ・ハイ氏と出会った。グ・ハイ氏が心を尽くして大義を説いたお蔭で、彼は或る日軍の武器を持ち出して我党へ走った。それから、我軍側で仏軍と交戦したが、破れて一時山に逃げ込み潜んでいた所へ、私のタイ行きの噂を聞き付け歓んでタイへ飛んで来たのだった。
 この時年齢は60歳位だったが、立派な体格をしており、外見は30歳位にしか見えなかった。武術に長けていたので、農作業の合間や早朝などに青年達へ拳術、鞭術を教えたので、若者は皆大変喜んだ。

 失敗の連続で八方塞がりとなった我々が、時機を待つに一時身を隠したタイだったが、 やっとなんとか食と住の場所を得て、同志が集って夜が耽る迄生活を共にしたこの時期は、私にとって特別の感情がある。それもつかの間、一年余も経たないうちに中華革命軍が蜂起して、≪武漢光復≫の銃声がタイに暮らす我らの鼓膜にも響いて来た。その為に、 ≪車輪を替え、紐を換えた≫我らの、要するに第3回目に相当する≪失敗≫の運命はここから始まったのだった。


『聨亜芻言(リエン・ア・ソ・ゴン)』

 辛亥(1911)年、中華革命軍が武昌を恢復してから約1カ月の間に、各地がこれに呼応して続々起ち上った。そして3カ月も経たずに満清朝を倒し南京に中華民国を設立するとは、私は想像もしていなかった。この報がタイへ届くと、私の全身は血が湧き立ち、居ても経っても居られず、この革命成功の要因は、当然旧政府(満清政府)に比べ新政府(民国政府)が腐敗して居なかった為だと思い込んだ。これが、まず以て私の最初の見誤りであり、正に失敗の起因であろう。

 日本と連携した中華民国は、これで強国となった。そして、もし日華両国が全力を傾け協力して欧州勢に対峙するならば、我がベトナムだけでなく、インド、フィリピンも同時に起ち上るに違いない。だから、私は早速旅仕度を始めて、先ず支那へ戻り、それから日本へも再訪し、≪合縦≫運動を働きかけることにした。 この時、農作業に従事してたことも有ってか、多少気分が晴れやかになったお陰で、『聨亜芻言(リエン・ア・ソ・ゴン)』を書き上げた。
 全篇に亘り≪日中同心≫の有益性と、≪不同心≫の損害を説明し尽した内容であり、製本して支那革命党の旧知の友人らへ送ることにしたが、その前に此度の革命成功の祝福と、私の支那渡航の意志を書いた手紙を送っておいた。章炳麟(しょう・へいりん)氏や陳其美(ちん・きび)氏など支那人の旧友らからは、私に是非支那へ渡航されたしと返信が届いた。 ダン・トゥ・キン氏とダン・ゴ・シン氏2名に農業開拓事業を任せて、私とダン・トゥ・マン氏 でバンコックの『華暹新報社』へ、ここの社主であり在タイ支那革命党機関の主任でもある粛仏成(しゅく・ぶっせい)氏を訪ねた。
 粛氏は、私の『聨亜芻言(リエン・ア・ソ・ゴン)』を読むと、これを大変気に入ってくれて、 無償で千部を印刷してくれた。タイ在住日本人からも大好評を得て、彼等は即座に3百部を買い取ってくれた。残りの7百部は、ほんの一部を華僑の人々へ寄贈しただけで、殆どは支那へ持ち帰った。この時の同行人はグエン・クイン・ラム氏と鄧鴻奮(ダン・ホン・ファン)氏、我々は広東の周師太の家に到着した。

 時は辛亥(1911)年12月、国から出て来た阮海臣(グエン・ハイ・タン)が先に到着していた。それ以外に支那各地に分散していた党人ら、鄧沖鴻(ダン・スン・ホン)や林広忠(ラム・クアン・チュン)、黄仲茂(ホアン・チョン・マウ)、陳有力(チャン・フゥ・ルック)などが続々と広東へ馳せ参じ、その他にも南圻から阮成憲(グエン・タン・ヒエン)、黄雄(ホアン・フン)、 鄧秉誠(ダン・ビン・タイン)などなど、或る者はタイから、或る者は祖国から出国して来るなどして、皆一様に同じ希望を胸に抱いて香港に集って来ていた。それは勿論、中華革命党の成功という一大機運に便乗し、支那人の手を借りて我国に新局面を切り開くという切なる想いからだった。
 しかし今考えれば、あの計画もやはり出鱈目だったのだ。その頃の我国には組織らしい組織も実力も無く、単に外部勢力を頼みに他人の背に乗っかるだけだった。古今東西探しても、乞食稼業をやりながら何かを成し遂げた革命党のあったことはない。残念だが、その頃の我が国内に勢力は無く、国民は惰眠を貪り腹を膨らます“無策”な日々を送っていたのだ。だから、たとい“下策”であってもこれをやらねばならぬ。結果は時の運不運に任せるのみであった。

 壬子(1912)年の春一月頃、孫中山(=孫文)先生が中華臨時大統領に選出された。私の旧友胡官民(こ・かんみん)氏が広東都督、上海都督は陳其美(ちん・きび)氏という最も懇意な友人が就任した。 この時に支那各地から広東に集まって来ていた我党人は約百人、香港からクオン・デ候、タイからマイ・ラオ・バン翁もやって来た。寄り集まりの会議で皆の意見はバラバラだったが、そんな時に、突如ハノイから到着した阮仲常(グエン・チョン・トゥェン)翁より齎らされた当時のベトナム国内情勢はこのようなものだった。  「中華革命成功の影響が我が国内にも大きく広がり、以前に比べて人々の熱気は格段に異なっている。今この時に国外から一石を投ずる者あれば、国内の志気は大きな波の様なうねりとなって盛り上がるは確実だ。」

 その頃の党人の大半は、激昂行動派の人間ばかりだったから、私はこれからの行動順序の大枠を決め、同志各々より同意を得ることにした。

 先ず全体会議を開いて、順守すべき方向性とポリシー、主義を明確にした。何故かと云えば、日本政府に学生が解散させられて以後、公憲会は完全消滅し、国内からは党人の悲報が怒涛の如く漏れ聞こえ、党の痕跡は離散、維新会規則の冊子も失っていた。今から党務を回復させるには、新たな整理整頓が不可欠だった。この第一段階として、執る主義の決定と國体の問題を明確にし、第二段階は委員を選出し、国内3圻地方へ派遣して運動を展開する。第三段階は、中華革命党の人間と接触、交渉の上で合同機関を設置し、 商業的援助が可能である革命支援勢力を持つ人物を引き入れることにした。何故なら、 この頃の我党は、党人の誰も彼も両手が空っぽだったから、外国を頼らねば何も始まらない。この構想を練り上げ、容易を周到にして第一段階の実行に移った。

 2月の上旬、沙河の劉永福(りゅう・えいふく)邸を集会所として借り受けて、ここに3圻地方の全党人ほぼ全員が集合し、顔を合わせて大大会を開催した。先ずは会議冒頭に解決せねばならぬこと、それは、君主主義を執るか、或いは民主主義を執るかだった。

 私は、日本に滞在してからというもの、専ら外国に於ける革命原因や、東西に於ける政体の優劣についての研究をし、ルソーの理論性の精髄を認めて居た。そのことに加え、中華人の同志らと長い期間接していたため君主主義はとうに戸棚にしまい込んでいた。しかし、まだ出国したばかりの当時は、国内の封建風土が依然として変わらない中で声を大にしてこの主義を掲げるなど無理な話だったから、手段を無暗に変更すべきでなく、君主主義の旗を掲げて周囲の人間に合わせていた。だが、世界に大きな変動があり、局面は大きく変わった。この時に、私は初めて公けの場に於いて、君主主義を民主主義へ変更させることを議題に載せた。
 先頭を切ってこれに賛成を表明したのがダン・トゥ・マン氏にルオン・ラップ・ニャム氏、 ホアン・チョン・マウ氏とその他幾人かの中北圻出身の同志たちであり、彼等は大賛成だ った。数名の南圻同志だけはこれに反対した。南圻同胞達は、クオン・デ候に対する尊崇の念が脳に深く沁み込んでいて、急には頭を切り替えることが出来なかった。それでも、 南圻の先輩、阮海洋(グエン・ハイ・ズォン)翁が、民主主義は好まずともしぶしぶ諒解した ことで、結果的に大勢は民主主義へ傾いた。それによって、維新会消滅の決議を採択し、 代わりに新しく組織を立ち上げることにした。

 ベトナム光復会の設立

 この会議に於いて≪ベトナム光復会≫の誕生に至り、私が作成した会規約が全党員一 致で採択された。
 会綱領第一条はベトナムの恢復、ベトナム共和民国の建国。これが、本会の唯一無二の綱領だ。そして、会職員を総務部、評議部、執行部の3部に分け、其々役員を配置した。
総務部: 部長 ベトナム光復会会長 畿外候クオン・デ
    副部長 ベトナム光復会総理 ファン・ボイ・チャウ
評議部:部員3名を有し、各圻地方から1名ずつ選出
 北圻 阮尚賢(グエン・トゥン・ヒエン)
 中圻 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)
 南圻 阮紳憲(グエン・タン・ヒエン)
執行部:委員10名で構成
 軍務委員 ホアン・チョン・マウ、ルオン・ラップ・ニャム
 経済委員 マイ・ラオ・バン、ダン・トゥ・マン
 交衝委員 ラム・ドック・マウ、ダン・ビン・タイン
 文読委員 ファム・バ・ゴック、グエン・イエン・チウ
 庶務委員 ファン・キ・トゥァン、ディン・テ・ザン

 上記執行部委員の他に、国内遊説運動委員を3名置いた。
 北圻 阮秉賢(グエン・ビン・タイン)
 中圻 藍広忠(ラム・クアン・チュン)
 南圻 鄧沖鴻(ダン・スン・ホン)

 この時、会の集会所として2か所を定めた。一か所は沙河の劉家私邸で、劉永福翁より拝借し、定員は50名程。もう一か所は黄沙の周師館、ここは定員約10名。それ以外は、 支那人の友人宅に分散して滞在するか、或いは学堂寄宿舎に寄宿するとした。
 こうして諸々を決定した頃、ふいにとても嬉しい出来事が有った。

 会の設立を終え、職員も選出、住所が大方定まっても、会の公金は一銭も無かった。如何に職員がやりくり上手であっても、全員に飯を食わせるなど至難の業だ。これでは党員同士で顔を見合わせ、日がなメソメソ清談に明け暮れるが関の山になってしまう。やはり、 目下解決すべき緊急の課題は金の問題だった。かと言って、解決方法は国内の募金活動と、国外での寄進乞いの2つしかない。取敢えず、後々に大喜捨を得る為の土台作り、小さな無心から始めるべきだとして、先ず心社の劉師復(りゅう・じふく)先生から2百元の喜捨を頂戴した。そして続いて中華民国統領の関仁甫(かん・にんほ)氏より百元、謝英伯 (しゃ・えいはく)氏と鄧警亜(とう・けいあ)氏よりも、其々百元ずつ寄付を頂戴した。
 こうして会の公金を得たので、少額を旅費として支出して党人3人をベトナム国内へ送り込んだ。残金は、かなりの部分を文書類の印刷費へ当てた。 印刷が出来上がって来た『光復会綱領』と『光復会宣言書』を、これから国内潜入し配 布活動を行う予定の3党人に渡して早速国内へ向かって貰ったが、陸路の運搬は元から非常に困難だった上、実に都合の悪いことにこの頃は里慧(り・けい)氏が逮捕されていたので海路の秘密運搬ルートが断たれてしまい、この類の文書類は殆ど国内に持ち込めなかった。
 国内へ潜入した3人は、そんなに時間が経たないうちに戻って来た。この時彼らが集めた寄進の額は、3圻地方合わせても2千ピアストルのみで、南圻はグエン・ビン・タインが千ピアストル余、中圻はラム・クアン・チュンが3百ピアストル余、北圻はダン・スン・ホンが5百ピアストル余だった。  この結果を見れば、ベトナム国内の運動状況が解るというもの。以前維新会の勢いがあった時に比べて、何倍も困難な状況になっていた。

 3人が国内へ潜入する直前は、私も積極的に対外活動を続け、壬子(1912)年2月下旬には、南京に孫中山先生を訪ねた。
 この時、中華革命後の第一回国会が開催されるというので傍聴席でこれを見学したが、この頃南京政府は設立2カ月目だったにも拘らず、 政府閣僚の顔ぶれは殆どが交代するという重大な時局であり、結局孫先生も袁世凱へ大総統職を譲らざるを得なくなっていた。
 この様な背景の中、私の南京到着時は丁度南京政府要人の新旧交代の真っただ中であり、政府内部の慌ただしさは言うに及ばす、孫中山先生は多忙極まった。私との面会時間も十分に取れず、結局先生と話が出来たのはほんの数分間程度だった。
 孫先生との面会所を辞して、その足で黄興(こう・こう)先生の所へ出向いて行った。この南京滞在中に何度か黄先生との面会が叶ったが、最後の面会日に黄興先生へベトナム援助の件を訊ねて見ると、先生の返事はこうだった。
 「我国のベトナム援助は、我々の義務であり放棄は出来ない。しかし、今此の事を語るのは時期尚早だと云えよう。代わりに、現状で出来る事柄を幾つか貴兄らに提案したい が、先ずベトナム人学生を選出し、中華学堂、或いは中華軍営へ派遣なさい。人材を育てて温存し、時局を待つのです。多少遠回りになるかも知れんが、それでも10年位でしょう。 この事、どうかご留意願いたい。必要ならば我らがお手伝いする。今はそれ以外、現状に於いて貴兄らにして差し上げることは何もない。」

 この黄氏の言葉に私は誠に失望した。学生派遣だけなら以前と何も変化なく、祖国は植民地にされたままだ。しかしこれも仕方ない、私は力の無い相槌を返すしかなかった。この時に黄氏が書いてくれた、粤(広東・広西)督の胡官民(こ・かんみん)氏宛の紹介状の内容には、胡料理(こ・りょうり)氏へ、広東に滞在するベトナム人学生の面倒を頼んでくれていた。私は、我国に近接し関係性も良好な土地は広東を置いて他にないと改めて思い直し、黄氏の紹介状を手に上海へ向かい、陳其美(ちん・きび)都督に面会した。 陳先生は、義に厚い熱血漢で、私とは≪同病≫に奔走してた頃からの旧知の間柄だ。 だから、私は遠慮せずに先生へ我らの厳しい現状を訴えて、援助を切り出した。陳先生は、 私の心情を見抜いていたのだろう、躊躇うことなく4千元を贈ってくれた。けれど、私が、「これから人を国内に派遣して激しい抗議行動を策動させるつもりです。」と計画を伝えると、陳先生は真っ向から反対し、「先ず教育問題に着手すべきであり、国民に教育無ければ抗議行動など全く効果は無い。」と諭したので、私はこれに返答した。
 「我が国の教育は完全にフランスの手中にあり、学校で行われる教育は全て奴隷教育と云えるもの。私立学校の設立禁止、学生の留学禁止、我等の教育事業で我等に自由になることなど一つもない。我が国民が万死の中に一生を求める策は、暴動を起こすより他に策が無いのです。教育改善を求める為に暴動を起こすのです。」
 私は、イタリア人ジュゼッペ・マッツィーニ氏(=イタリア統一運動の革命家)の言葉、 『教育は暴動を抑え、同時に精神を浄化する』を引用し、それまで我党が経験した失敗の数々、例えば≪東京(トン・キン)義塾≫や≪広南(クアン・ナム)学会≫などを列挙して詳細に説明したので、とうとう陳先生も理解を示し、最後に軍用爆弾30個を取り出して私に差し出した。広東から一縷の望みを抱いてやって来た私だったから、漸くこれで多少の成果を得たことになるが、何よりやはり、此の時に陳先生から受けた大恩は、私が死んだ後とて忘れ得るものではない。

 陳其美先生と別れてから広東へ戻って、直ちに会の仕事に取り掛かったが、その頃に今でも印象に残るこんな笑い話がある。 何年か前に、台湾党の統領で名を楊鎮海(やん・ちんかい)という志士が居た。台湾高等医学専門学校に学び、医学士の学位を持ち、英語、日本語が流暢の上に漢語も多少は話すという頭脳明晰ぶりだが、革命思想にどっぷり浸かった男だった。台湾党の謀事が漏洩し、日本政府に逮捕されて牢屋に放り込まれたが、獄兵を殺して脱獄し上海へ逃げた。日本政府は直ぐ様彼を殺人犯として緊急手配し、支那官憲へも連絡が行ったが、上海の支那官憲はこの男を保護して偽名で広東へ逃がしてやった。広東に来たこの男は、 ここで私の著書『越南光復会宣言』やその他の書物を読んだことで、我党への入党を希望した。その後にはベトナム国籍を取得して、ベトナム光復会の一委員として職責を担い、それ以後実に能く党事を助けてくれた。
 彼の亡国の党人が、他の亡国の党人を庇い扶けるとは、何とも奇妙な話ではないか。

 それ以外にもう一つ珍しい話がある。それは、日本に居た頃、学生 4 人を引率して振武学校に行った時のこと。
 その当時日本には印度(インド)革命党の党人も沢山居たが、日英同盟後の日本政府はインド革命党の人間を歓迎せず、またインド人は外見が支那人と全く異なるから、国籍を偽って軍事学校へ入学することが出来なかった。そのような状況だったので、インド革命党のリーダーだったデ(DE)氏は、彼等インド革命党の党人をベトナム人として日本政府に申請し、学校の入学を取り付けてくれないかと依頼して来たが、これは無理な話だ。 丁度その時、広西省出身で桂軍統領の陸栄廷(りく・えいてい)氏が、陸軍幹部学堂を設立したので、陸氏へ書を認めてデ氏を紹介したところ、陸氏はデ氏の志を評価するも、椀曲に断って来た。
 自立ままならず他を頼みにするしかない、その結果がこの不幸だ。それに比べ我党党人を見れば、或る者は北京学校、また或る者は広西学校、そしてまた或る者は広東学校で学び、或いは支那国費で日本留学も出来て養育もされ、教育を与えられて何一つ不足の無い手厚い保護を受けたのだから、華人の我が国に対する真心の深さは計り知れないとつくづく想う。

 壬子(1912)年の夏から秋、この間にベトナム光復会が母体より生まれ出で、一声の産声を上げ、そして幾万の艱難を知った時期だった。加えて、我々の活動史上に於いて、幾つかの事業の萌芽が芽生えたのもこの時期だった。極めて短い歴史とは云え、一つの歴史を刻んだことに間違いはない。
 ここにそれらを記録して置く。

 1)この時期から民主主義へ転向(詳細は上述の通り)
 2)ベトナム国旗制定
 3)ベトナム光復軍方略と光復軍旗を制定


 

ベトナム国旗

 会設立の次に取り掛かるべき国事の第一は≪光復軍≫の創設だった。

 幸いに、ここ何年もの間は多くのベトナム人学生が軍事学校で学んでいた。北京士官学校は、ルオン・ラップ・ニャム、ラム・クアン・チュン、ホ・シン・ソン、ハ・ドゥン・ニャン、グエン・ティエン・ト、ダン・ホン・ファン、チュォン・クオック・ウイ。北京軍需学校は、ル・ハイ・ホン、グエン・イエン・ チウ。広西(陸軍)幹部学校はチャン・フゥ・ルック、グエン・ティェン・ダウ、グエン・タイ・バッ =グエン・シウ。これ以外にも、ホアン・チョン・マウ、グエン・クイン・ラム、ダン・スン・ホン、 グエン・ハイ・タン。
 彼等は、既に長く兵営に在って実地で軍事訓練を受けていたから、軍隊修練を行なう軍官の人材に不足は無かった。
 さあ、軍が出来れば軍旗が必要だ、軍旗が出来れば国旗が必要だ、という話になった。以前より、我国には皇帝旗のみ存在して国旗が無かったのも奇異な話だったのだ。だからこの時、我らベトナム光復会で新しく制定した国旗は、呼び名を≪五星旗≫、そして徽式を≪五星連州≫とした。
 我国は5地方部で構成されているから、徽式は5地方部の連絡を一つにするという意味を込めた。旗の配色は、黄地に赤い星を国旗。赤地に白星を軍旗とした。黄色は我ら(黄色)人種を表し、赤色は我が国を表す。南方は炎天下の地。炎の色は赤色。軍旗に白星を用いるのは、我軍の目的を表す。即ち白人政府の打倒。

 『ベトナム光復軍方略』は、この時に起草され製本された。
 全百ページ、紙製、本表紙は ベトナム国旗と光復軍旗を印刷。内容は、1)光復軍の主義と宗旨、2)光復軍の規律、3) 光復軍の編成方法、4)光復軍の職員とその俸給、5)光復軍の実行計画、6)ベトナム光復軍の軍用票
 この方略の第3章以降は全てホアン・チョン・マウ氏の起草によるもの。私が書いたのは第1章と第2章のみ。


軍用票

 ベトナム光復軍≪軍用票≫もこの時期に発行した。
 この時期に、私は従来執って来た平和的斬進宣伝は、単に清談に時間を空費して来ただけだと思い至った。だから、光復会設立後からは、武装革命蜂起を実行して死中に活を求める方針へ転向し、これに没頭した。だが、何れにせよ資金を手にせねば武装暴動の実行はできないし、もし暴動成功に足り得る資金を得ようとすれば、先ずは幾らかでも手元に元本が必要なのだ。だから、旗下に集合した大勢と共に座して死を待つよりは、最後の一石に残局の勝敗を賭ける方が余程良いと、ひたすら≪千載一遇を得る≫為に出来る限りの策を講じたつもりだった。
 だが、結局は後人への≪失敗の模範≫を示したに過ぎなかった。

 その頃、広東の革命家の中に蘇少樓(そ・しょうろう)氏という支那人が居た。以前我国領土に屡々常駐したり、勤王党がラン・ソンの鎮南関へ攻め入った時にも自軍を率いて蜂起に参加したこともあったので、私とも昵懇の仲だった。そういった背景で、ベトナム光復会に心を寄せてくれていた蘇氏は、我らに軍用票を提案しこの発行を勧めた。
 「この案は、軍用票と交換にして資金取得が容易という長所があるが、文明的な方法で人を騙し金銭を得る方法という短所もある。それでも、両粤(=広東・広西)領土とベトナム国内へ人を派遣し、其々で引き受け人を探させたらどうでしょう。」
 私は、この言葉に納得したので、蘇氏の案内でホアン・チョン・マウ氏が香港へ渡り、この事に熟知した中華革命党の人間を訪ねた。そして香港で軍用票の図案を作成し、4種類を印刷する運びとなった。
 表面上部は≪越南光復軍軍用票≫の文字、真ん中の大字は数字で≪5元・10元・20元・100元≫、4角の数字も同様、これで4種類。裏面は、漢語とベトナム国語の2か国語で≪越南光復軍臨時政府発行≫の文字と、≪軍用票額面通りの額に換金可能≫、≪ベトナム民国政府が正式成立した後に倍額を供給≫、≪偽票発行と乱発の禁止、違反者は重罰に処す≫の文言を記載した。署名者は潘巣南(ファン・サオ・ ナム=ファン・ボイ・チャウの号)、発行責任者はホアン・チョン・マウ。 機械印刷で印刷したお蔭で、支那政府発行の紙幣の如くに精巧な仕上がりだった。


本の登場人物・時代背景に関する補足説明(11)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?