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仏印”平和”進駐の『第2次近衛文麿内閣』外務大臣松岡洋右のこと その(2)

 松岡洋右氏(以下敬称を省きます。)というと、『国連脱退』『日独伊三国同盟締結』のみがクローズアップされ過ぎて、それ以外一般的にはあまり知られていないように思います。私は元々、歴史嫌いの普通の女子でして、正直に白状しますと、お名前も何も、殆ど知りませんでした。。。(汗)約30年前に突然ベトナムで働くことになり、そこからベトナム史を追って行く過程の中で、この松岡洋右というお名前をよく見かけました。ですので、私にとっては、『仏印平和進駐時の外務大臣』です。で、それ以外に何をやっていたの?という、素朴な疑問から調べ物をした経緯があります。   

 松岡洋右は、当時の『満州の三スケ』-松岡洋右、鮎川儀介(鮎川財閥-日産グループ)、岸信介(安倍晋三元首相のお爺さん)の一人ですね。経歴は、1904年外務省入り、1921年満鉄理事、27年副総裁。1930年衆議院議員当選、1935年から再度満鉄総裁就任、1940年外務大臣就任ということです。そうしますと、東亜経済調査局付属研究所、通称『大川塾』(→私の過去の記事をご参照お願いします。。)設立費用を決済した時の満鉄総裁が松岡洋右ということになりますでしょうかね? 大川塾の出資者に外務省もいますし。第一期20名でスタートした大川塾では、当時東条英機、土肥原賢二など、そして松岡洋右も講演しました。大川塾のことは、また別途記事に纏めたいと思いますので、脱線せずに仏印平和進駐時の松岡洋右氏の形跡を追って行きたいと思います。

 『何をしたか?』よりも、『その結果、何がどうなったのか?』が重要かと思いますので、松岡洋右外務大臣就任により、仏印で、何が、どうなったのか?を時系列に纏めて見ました。⇩

『7月16日 第2次近衛内閣総辞職で、外務大臣の任を解かれる。』→ 前日に投稿したその(1)では、ここまでで終わりましたが、この後ですね、近衛文麿は内閣総辞職直後に、次期総理大臣就任要請を拝命します。その2日後の7月17日に第3次近衛内閣を松岡以外は殆ど同じ顔触れで再組閣したので、世論は勿論、『近衛の松岡外し』だと理解しました。けれど、私のように仏印史だけに興味のある人間にとりましては、松岡洋右の『置き土産』である『日仏印共同防衛協定』が、7月21日にフランス・ヴィシー政府と加藤大使の間でとうとう合意されたことの方が大事件です。(因みに、この加藤大使は、この交渉終了直後に欧州でそのまま謎の死を遂げています。)この『日仏印共同防衛協定』を締結した当時フランスは、敗戦によるドイツ占領下のヴィシー政府・ペタン元帥(首相)です。ペタン元帥は、この頃このような言葉を、再三国民に投げかけていました。「母国フランスの国民よ、吾々は間違っていたのだ。今や吾々フランスは歴史はじまって以来の悲惨な立場にある。国民は此の苦難を忍ばなければならぬ。そしてこの敗北の底から新しいフランスを建てなおして行かなければならぬ。国家に期待するな。そして汝等の子供たちを養え…」 『包囲された日本』より この時フランスも、交戦派と非戦派に国内が分裂し大変な状況で、心労は如何ばかりだったかと推察すると、いつも胸が痛みます。

 さて、7月21日に『日仏印共同防衛協定』が調印され、日本軍は武力に寄らずに北部から南部へ兵を南下させます。所謂『日仏印共同防衛作戦』の開始です。⇩

7月28日 順次中部ダナン、ニャチャン、南部サイゴンへ上陸開始。海南島参謀本部も直ちに飛行場確認の為サイゴン入り。
7月29日 先導駆逐艦ヒヨドリを先頭に大船団がサン・ジャック岬(ブンタウ)要塞に到着。川筋を遡流してサイゴンに入る。
8月1日 仏印派遣軍司令官の飯田中将上陸。サイゴン商工会議所内に『南方軍総司令部」を置く。タイのピブン首相も満州国を承認。親日を表明し、日仏印と共に英米と共に戦う意思を示す。
8月3日 ハノイから海軍航空隊がサイゴン飛行場に到着 。サイゴン川筋は毎日艦船が入り朝から夕方まで兵隊の上陸が続く。
8月4日 3個部隊が同じ仏印のカンボジア・プノンペンに到着。カンボジアの王と市民の熱烈な歓迎に会う。 その後同じ仏印のカンボジア国内それぞれ任地に分駐する。  
8月初旬 南遣艦隊司令長官平田中将サイゴン上陸。巡洋艦名取、駆逐艦数隻停泊。   
8月12日 海軍建築部2名土木部2名の測量隊作業開始(上陸は同4日)。
8月13日 警備隊上条部隊上陸。海南島から海軍建築部 上陸。エールフランス航空会社が使っていたサイゴン飛行場の拡張工事、ダナン、ニャチャン、トゥ・ヤウ・モットやカンボジア各地など、10月中旬を完成予定として20か所の飛行場の拡張整備に取り掛かる。      

9月下旬からサイゴン、プノンペンの間で機械化部隊中心にした大規模演習

10月15日 守油茂 (トゥ・ヤウ・モット=現ドンナイ省)飛行場完成。       

10月23日 東条新内閣の元、南遣艦隊長官に就任した小沢中将が西貢(サイゴン)入り。10月下旬  富国(フーコック)島に新たな飛行場建設を決定し、昼夜兼行工事に入る。                                     11月中旬  フーコック飛行場完成
11月23日 艦隊旗艦 香椎が小沢司令長官を乗せてサイゴンを出発。海南島で、山下奉文中将と会談。
  
 と、⇧当時の日本軍は実に機敏で迅速に行動していた模様でして、当時の仏印主権者フランス・ヴィシー政府の協力が無ければ無理なのは当然のことでした。マレー、フィリピン、シンガポール、上海方面へ飛ぶ戦闘機部隊、前線情報収集の海軍偵察機は、この仏印基地飛行場から飛び立ち、シンゴラ、コタバル上陸成功の後方支援をした海軍護送船団も仏印基地から出発した。最も重要なことは、『日仏印共同防衛協定』を軸に締結された「日仏印軍事協定」で、「無電」「気象情報」「鉄道」に関する協力が仏印側から得られたことが大きかった」そうです。以上、主に『包囲された日本』とその他色々な資料から拾ってみました。

 当時このような状況下にあって、日本とフランスは一時『共同防衛』『静謐保持』政策を執っているとはいえ、長年植民地支配に置かれ続け、祖国独立解放を目指すベトナム人民からすれば、この時の日本の外交方針・外交戦略の一挙手一投足を、固唾を呑んで見守っていたであろうかと思います。その為でしょうか、『当時のベトナムにおいて、松岡洋右外務大臣というのは、非常に人気が高かった。』という、現地に駐在していた方の記述を見掛けたことがあります。(←どの文献だったか見つからず、後日文章をアップデートします。。)私がベトナムに渡ったばかりの頃(←30年前ですね。。)、ベトナム人の同僚に『Thông(トン)さん』という若者がいて、この『Thông』は、漢字にすると『松』ですが、名前の由来を彼に聞きましたら、『お父さんがもの凄い親日で、何が何でも、息子が生まれたら『松』と名付けるんだ、と決めていたんだって。『松』は最高だ、日本は最高さっていつも言っているよ。』ということでした。そういえば、当時の仏印に纏わる方々は、なにやら『松』の名前が付く方が多いような気がします。松井石根大将、大南公司の松下光廣社長、そして外務大臣松岡洋右。これを総じて、『仏印の三松』と私は勝手に呼んでいます。。。(笑)

 さて、では松岡洋右が、特に何か仏印に思入れがあり、特別肩入れしていたのかと言えば、全然そうではないと思います。仏印防衛は、その頃の世界情勢上、避けられない重要問題だったからでしょう。13歳で渡米して、現地オレゴン州立大学を卒業した松岡洋右は、アメリカを『第二の故郷」と呼んでいたそうです。少年松岡の渡米を勧めたという『杉山茂丸翁』の存在からも感じるられるに、松岡洋右外務大臣時に外務顧問を務めた旧会津潘出身の斎藤良衛博士の言、「彼が日米関係の改善に外交の重点をおいていたことは、松岡外交の真相を知る上において、重要欠くべからざることである。」を挙げたいと思います。ベトナム王国クオン・デ殿下を支援をした松井石根大将の『如月会』と、そのメンバーを構成する『玄洋社』の『黒龍会』、そして『杉山茂丸氏』についても、別途また記事を纏めたいと思いますので、脱線せずに、このまま斎藤良衛博士の『欺かれた歴史』からの記述で、この記事を〆たいと思います。⇩

  「近衛、松岡、東条、吉田の4人のいわゆる荻窪会談から自邸に帰った松岡は、私に対して「いよいよ近衛の内閣に外相として働くこととなった。外交にはあちらが重要で、こちらが重要ではないということのあろうはずはないが、僕は、アメリカ外交に重点をおき、その改善を中心として、対英、対ソ、対中国の懸案を解決し、さらに進んで世界平和の確立を目指すであろう。(中略)僕は子供の時からアメリカで育ち、アメリカで人となった関係からか、同国には強い執着を持っている。そして僕は、プロ・アメリカンといわれることを、むしろ喜ぶものである。」

 「転じて北部仏印進駐問題について見ると、これは松岡と仏国大使のアンリーとの間に締結された協定に基づいたものだから、陸軍も外務省も同調してできた形になっているが、この問題の考え方には、両者に雲泥の差があった。松岡の考え方からすると、仏印ルートによるヨーロッパ、アメリカ方面からの蔣介石軍援助物資の輸送阻止が、日華事変の解決になんらかの効果はあっても、これだけで事件が解消されうるものではなく、中国におけるわが軍事行動を完全に清算しないかぎり、とうてい期待しうるべきでない。また援蔣物資の阻止そのものについて見ても、これができても、他の援蔣ルートがあるのだから、一つだけとめてもさして効果がない。ただ蔣の抗日意識を鈍らせる一つの手段になるだけだとした。松岡の考え方は、それきりのものであった。」

 「ブロック主義世界経済機構に関する松岡の考案には、右の外に幾つかの経済上の理論づけがあった。(中略)(4)第一次世界大戦中から強度化した保護貿易主義と民主主義経済とは、持てる国にとっては好都合でも、持たぬ国を立って行けぬものにする。これによっていちばん迷惑を蒙るのは東亜諸国である。これらの諸国は、物資に恵まれていても、生産手段を欠き、生産手段が備わっていても、物資と市場を欠いている。」

 「(松岡自身が作成した)『時局処理要綱』は、(中略)同条3の1に、”仏印香港及租界ニ対スル援蔣禁絶敵性芟除施策ヲ強化ス”とあるのも、同条4に”重要物資取得ノ為対蘭印外交ヲ強化ス”とあるのも、みな戦争を予定せず、侵略を予想しないものであったのだ。この趣旨に従い、松岡は間もなく蘭印との通商交渉もやったし、援蔣ルート閉鎖のための外交交渉もやったが、それはむろん普通の平和的手段による外交であった。」

 「かくて北部仏印進駐は、軍部の思いのままになったが、それは南部仏印、タイ、マライ、その他への日本軍進出の前駆となるであろうことは、松岡の予期せざるを得ないところであった。そこで彼はよほどこれを心配し、強い(軍部との)闘争を決意したらしかったが、それもできず松岡は近衛内閣から放り出された。」

 「従って前記の決定(=1941年9月6日『帝国国策遂行要領』のこと)は、開戦方針を無条件に定めたものというべく、対米、対ソ等の戦争方針は、前に述べたごとく、参謀本部がとうの昔に決定しているのだから、(中略)そしてこうした戦争方針が、はっきり国策と決まったのが、松岡が首を切られてから、わずか一カ月の後であったことも忘れ得ない事実である。」

 「彼がA級戦犯として捕らえられる少し前、往訪の私に、しんみりと次のように述懐した。「僕も近く捕らわれの身となるであろうが、自殺などの卑怯な真似はしないであろう。いやしてはならないのだ。僕は侵略共同謀議者の汚名を受けることを、少しも悲しみはせぬが、近衛と私に関するかぎり、三国同盟が侵略の目的から出たものでは断じてなかったことを、連合国側に納得の行くまで説明しておかねばならぬ。これが陛下と祖国に対する僕の最後の義務である。」と。」

 「日本人には愛国心を専売特許にしたがる癖があるが、軍部の侵略が日本を滅ぼすのを知りながら、高みの見物をした先轍にこりて、将来こんなことを再びしない十分な用意が必要である。」

以上、斎藤良衛博士の『欺かれた歴史』からでした。

仏印”平和”進駐の『第2次近衛文麿内閣』外務大臣松岡洋右のこと その(1)|何祐子|note



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