満鉄東亜経済調査局『仏領インドシナ征略史』⑧~初期の植民政策・第三期(1902年以降)~

満鉄東亜経済調査局|何祐子|note

 ドゥーメルは、貿易の発展に対しても、何等の関心を払わなかった。要するに、彼はこれ等全てのものを無視して政府の収入を増すことに全力を注いだのであった。そして彼が手を触れなかったこれ等の仕事は彼の後継者たちの手で行われる外は無かったのである。

 ドゥーメルが去って後は、当然対仏印土民政策が問題とならざるを得なかった。当時の土民達がフランスの植民政策に対して、如何に内心不平を感じていたかは、安南の親仏的な一土民官吏が1905年にラネッサンに宛てた手紙の中に良く現れている、曰くー、
 「以前の様に匪賊はもう居ませんが、全安南の各階級を通じて不平不満を感じていない者はありません。王は最早や何等の権威もなく、…。土民官吏は、土民の統治にフランスの駐在官を援助する権限を有たない事に関して不満を感じており、他方一般民衆は不断にそして急速に増大し行く租税の重荷のために困窮しているという状態です。そしてまたこの陰惨な民衆の不満は、最近の日本の戦捷(日露戦争に於ける)のために益々激化しているようです。私の見るところでは、最近の情勢は以前よりも遥かに困難であると考えられます。というのは、当時は国を荒らす匪賊がいたにしても極めて少数であり、一般の民衆はフランスに好意を有っていたのですが、今は不満が一般的となっているからです。私はこのままでは将来が恐ろしいと思います。」

 即ち、ドゥーメルの経済改革の為に、民衆は租税の重課を受けて貧窮のどん底に苦しんでいた時、日露戦争に於いて東洋の一後進国たる日本が大勝を博し、更にまた隣邦タイが次第にイギリス及びフランスの支配から解放されて、独立国家の体制を備えて来たのに刺激されて、インドシナに於いても、「アジア人のアジア」という汎アジア運動が発生しつつあったのである。

 …しかし乍ら、フランスの駐在官吏達は、之に対し全く何の手段も講じず、寧ろ彼ら自らがインドシナ破滅の源をなしていたのである。フランスのインドシナ駐在官吏達は、1897年の2860人から1911年には5683人に増加し、この官吏群を維持するだけでも年々歳入の四分の一に相当する3500萬ピアストルの経費を必要とした。…1911年にフランスの駐在官吏5683人のうち、安南語を完全に話すことの出来る者は僅かに3人で、日常の用事にどうやら聞きかじりの土語を話すことが出来る者を皆合わせても全体の9%に過ぎず、残る91%のフランス官吏は全く土語を解しない状態であった。
 要するに、…。従来のフランスの植民政策が、非常な失敗であったことは、最早や否定さるべくもなかったのである。そこで1907年には、東京(トンキン)に土民の有力者から成る諮問会議を設置することになったのであるが、…しかしそれはトンキンだけのことであって、安南とカンボジアは、1897年のドゥーメルの改革当時のままであり、コーチシナは旧態依然として官僚的支配が行われていたのである。

 斯くて総督クロブコフスキー時代(1908ー1911年)のインドシナはまさに疲弊のどん底にあった。然し、…アルベール・サロ―が総督に任ぜられるや、…彼はまず土民の利害を強調し、従来改革を妨害していた多くの障害を除去した。次いでフランスの駐在官吏を整理して土民を以て之に代え、…フランス人官吏には土語の習得を命じた。

 然し問題の根源は、そういうことよりも寧ろ裁判の仕方にあることを、サロ―はすぐに感づいた。フランス流の法律をそのまま適用すること自体に無理があったのに加えて、法の適用そのものが時により所によって異なるという有様で、土民はそのために非常な犠牲を払わされた。…

 …斯くの如くコーチシナでは所謂『同化政策』が行われているのに、トンキンでは保護領政策が採用されるという状態で、その間全く何の統一もなかったが、サロ―は決然として後者の政策を以て臨むことにした。
 …安南法は法律と道徳とを区別していなかったが、それは宗教が日常生活を規制している古い共同体に於いては当然のことであった。法律は個人を対象とするよりも寧ろ社会を対象とし、また絶対的なものではなくて示談的なものであった。フランス人は法律と道徳、行政と司法とは截然と区別すべきものであるという考えから、土民官吏は同時に行政官たり又司法官たるべきではないという風に考え、9級に分かれる『司法官』階級を組織して、之を『行政官』と区別したのである。然しこの改革は土民の現実の事情に適しなかったために種々なる障壁に遭遇し、依然として司法と行政の区別を判然とさせることは不可能であった。

 …土民の政治的要求は大体3つに分かれていた。第一は各地方に与えられた権限が余りに小さいということであった。…大家族制度に立脚する部落制度の組織は次第に破壊され、個人主義的な社会が建設されつつあったので、前述した『有力者評議会』は最早や村民の利害を代表しないものとなっていた。
 …第二の要求は、中央政府の行政に対しても、全土民の意見を代表せしむべきである、ということであった。『若き安南人』は、地方自治に対しては大した関心を持たず、専ら中央政治に土民の輿論を反映させることを主張した。
 …新たに生じた要求は、純経済的なものであった。蓋し一般大衆にとっては司法及び政治の問題よりも経済問題の方がより直接的な利害の対象であったからである。当時、農業様式は変化しつつあり、また工業の重要性が増大しつつあったので、之に適応する職業教育或いは技術教育施設が要望されるに至った事は極めて当然であった。支那式の人格教育が最早やこの新しい要求に適合しないことは云うまでもなかった。
 これより先、サロ―は早くもその必要を感じ、1917年に土民の教育内容を改善してフランス語による教育方針を確立し、之を国家の直接指導下に置く事を計画していたのであるが、1923年の末に置いてさえ近代的実業学校の数は僅かに11で、生徒数は1091名という状態であった。然し、近代的技術の採用が結局自分自身の利益であることを悟った土民達の教育熱は次第に昂まり、『教育の産業化』と共に米の耕作方法は改善され、新しい作物が耕作される等、産業の近代化運動が着々として行われることになったのである。

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 以上、①~⑧に分けて、南満州鉄道株式会社(=満鉄)の付属機関だった東亜経済調査局が、昭和16(1941)年に発行した『南洋叢書 改訂仏領印度支那(インドシナ)篇』から、『フランスのインドシナ征略史』ベトナムに関する部分だけをのんびりご紹介しました。。
 『仏領インドシナ連邦』に関しては⇒仏領インドシナ連邦の基本情報
 マガジン⇒満鉄東亜経済調査局

 この『南洋叢書 改訂仏領印度支那(インドシナ)篇』の出版年は昭和16(1941)年7月ですので、内容もこの時点までとなっています。

 『植民地支配下』はどんな経過を辿るのか?という視点で今一度検証したいと思います。
 まずフランスは、被征服者(仏印)側の”抵抗勢力”を大体潰滅し終わってから、『経済改革』に着手しました。この『経済改革』は何をやったかというと、「徴税率を上げ間接税を設け」、「予算を編成し」た。間接税を極めて重視して新税を増設し税率を挙げた為、バランスシート上は「余剰金を出すことに成功」しますが、当然税金を絞り取られる側は不満が溜まりますよね。第一普通に暮らして行かれない。。。

 尚且つ、フランス本国からの駐在官吏達がたったの14年位で2860人⇒5683人となんと2倍、しかも維持費だけで年々歳入の四分の一。(笑)しかも、5683人もいたというのに現地語をまともに話せる官吏はたったの3人!、聞きかじりの会話が出来る官吏が10%未満。。。(笑笑)こ、これは、、、⇩ 
 「…寧ろ彼ら自らがインドシナ破滅の源」

 凄い言われ様ですケド。。。 
 
、、、しかし、えーと、、、誰とは言いませんが、、
 実は、現代も全然変わらないような気もしますよねぇ。。( ´∀` )。。

 今のベトナムも、日本人駐在員さんとご家族が沢山来てますけど、ベトナム語をマトモに話す方とか、真面目に勉強して現地語で部下に接している方とか、日本語通訳なしでやっている方とか、殆ど見かけず・・・。
 なのに、駐在員ご家族様御一行は、語学ゼロで東南アジア史など全く無知のままやって来て、現地のプール付きコンドミニアムに住んで、運転手付きの車に、家政婦に、子供の日本人学校費用まで経費丸抱えで、奥様とか昼間は何してますか?ジムとかヨガとかテニスとか、SNSにはお洒落カフェ・ランチの写真ばかりだったり。。休暇は家族でシンガポールやバンコクの高級リゾート・ホテル滞在で想い出作り。。。
 
 えーと、話がちょっと反れてしまいましたが、、😅😅😅
 
結局、昭和16年発行の東亜経済調査局の書籍によれば、「要するに、従来のフランスの植民政策が非常な失敗であった」と結論が付けられ、その大きな要因として、「…寧ろ彼ら自らがインドシナ破滅の源」などと、「彼ら」=「現地駐在の外国(フランス)人管理職たち」の存在を挙げているのが秀逸だな、と思いました。

 あくまで個人的意見です。😂😂😂

 
 

  

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