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「安南民族運動史」(6) ~ベトナム略史・古代から徴(チュン)姉妹まで~

 大岩誠先生著『安南民族運動史概説』のベトナム略史を抜粋して、所々で他書史料や解説を入れてみました。⇩

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 由来、越安国の歴史は非常に古い。この国民は始め南支那から交趾支那(コーチシナ)平原あたりに移動して来たのであるが、暫くして其の地に定住して農業生活を営むようになり、早くから水田耕作も行った。人種としてはインドネシア系とタイ系との混和形と考えられ、学者の説によれば往昔、南下し来る漢民族に押されて此の半島に流入したものと推定されており、北部地方在住のベトナム人には、勿論、漢族の血が混和しているが、ベトナム人全体として見れば、漢民族よりも寧ろタイ人及びモン・クメール語族たるインドネシア系種族に深い近親性をもっていると考えられている『百越(粤)』の一族である。

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 陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏の『越南史略』には、「ベトナム人の起源」の項にこのように書かれています。

 「フランス人研究者によると、ベトナム人もタイ人も、同じく西蔵(チベット)山岳地方から降りてきた民族だとある。ベトナム人は紅河に沿って東南方向へ下り、現在のベトナム国を建国した。タイ人はメコン河を下りシャム国(現在のタイランド)と、ラオス側にそれぞれ国を建設していった。
 また、支那、ベトナム両国で多く聞かれる説として、「三苗族伝説」がある。その昔支那に住んでいた三苗族を、西北部から移動して来た漢民族(現在の支那人)が追い出して、黄河周辺の地に支那の国を建国した。漢族がその後も南下をしてきた為、三苗族は山岳地方へ逃れるか、現在のベトナム国の辺りに下りてきた、という。」
 「しかし、それら意見は地学的見地から推論しただけであり、確定するだけの証拠に欠ける。またこのような風説もある。その昔ベトナム民族は、両足の親指を交差させていたので、支那人が「交趾」と呼んだという。しかし常識的に見れば、このような種族はまずいるわけがないので、我々民族は多分違う民族であり、三苗族とは異なると思われる。
 我々がどの民族に属するか確定でき納得したところで、その後の支那王朝からの1000年に渡る統治時代には、支那兵40万人以上が我国領土に押し寄せたのであるから、かなり古い時代から既に相当の混血があって、今日のベトナム人が形成されている。」        
『越南史略』より

 フランスの研究によれば、タイ人もベトナム人も元は仲良くチベットから南支那に南下して来た、という説。戦前のフランスによるアジア民族起源研究は実に熱が入って、優れた研究結果が沢山残されました。私は、信憑性が非常に高いと個人的には思っています。。

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 ゆえにベトナム人の言語には非常に数多くの漢語が含まれ、フランス人が征服するまでは専ら漢字漢文を用い、現在でもなお多分にその影響を持ち、社会生活の大部分が支那文化によって発達し風俗習慣などにも支那殊に南支那のそれに近いという事実を見て、ベトナム人が漢民族の一分派と断定することはできないとも言われているのである。これはベトナム人の支那に対する関係、東亜共栄圏内における民族的地位についての考察を試みる場合に、注意しなければならないことであろう。
 さて、ベトナム人の国家生活について見ると、その建国に関しては淫陽王、貉龍君(ラック・ロン・クアン)などに纏わる神話が大越史記、大越史記全書のうちに展開せられ、豊富な研究題目を提供している。かような神話は其れだけで大きな研究対象となるものであるから、茲では言及しない。とにかく、かような様々な英雄神仙の物語を通して分るように、ベトナム人は我が(皇紀)400年代の後半期、西紀前200年代には既に国家生活の緒についていた。

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『越南民族運動史概説』は、和暦は全て『皇紀』(西暦+660年)です。。。💦💦😅

この⇧「淫陽王、貉龍君(ラック・ロン・クアン)」に関しては、先の記事で簡単に説明していますのでご参考下さい。
 ここで言及されている『様々な英雄神仙の物語』の一つで、ベトナムで最も有名な建国神話があります。
 
 「涇陽王は、壬戌年(紀元前2879年頃)に赤鬼国皇帝に即位。洞庭君主の娘龍女(ロン・ヌ)を娶り、2人の間に崇纜(ソン・ラム)が生まれた。この崇纜が父の後を継ぎ皇帝に即位して貉龍君(ラック・ロン・クアン)を名乗った。」
 「貉龍君と結婚した帝峽帝の娘、嫗姫(アウ・コ)は、一度に100人の男子を生んだという。そして、貉龍君は妻の嫗姫に対しこう告げた。
 ”私には龍君の血が流れ、其方には神仙の血が流れている。到底長く添い遂げることはできまい。こうして私たちの間に100人の子供が授かった。其方は50人の子を連れて山に登りなさい。私は50人の子を連れて南海に下る。”」
 この神話に関して、歴史家の陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏は、こう推察しています。
 「推量するにこの伝説の起源は、貉龍君の後節に関係するのかもしれない。というのは、赤鬼国は分裂して百粤(ひゃくえつ)と呼ばれたからだ。現在でも湖広地方(中国湖南省、広東省と広西省)を百粤地方と呼ぶのはこのためである。しかし、これらは単なる風説に過ぎず、何も確固たる確証はない。」

 正確に言うと、帝峽帝の娘、嫗姫(アウ・コ)が生んだのは、100個の玉です。ベトナムでは『アウ・コ姫が卵(玉子)100個を生んだよ~♪』と、可愛い童謡に謡われています。😊😊 
 これに関して、安南研究で高名な松本信廣先生の『日本の神話』という本の中に、日本の上総国一の宮『玉前神社』の豊玉姫命(とよたまひめのみこと)が産んだ子を妹君の玉依姫命(たまよりひめのみこと)に預けて海へ帰った神話と、浜辺に寄せる泡・石・玉『玉信仰』との類似性をご指摘されていたのを読んだ記憶があるのですが、今その本が手元になく、、😢😅、後日アップデートします。。。

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 この当時、広東を中心に存立した南越国の保護の下に、彼らは独立国に近い国家生活を営んでいたが、我が(皇紀)439年(BC221)、秦の始皇帝が南越を征服するに伴って、彼ら越南(ベトナム)人も秦の正朔を奉じて附庸国となった。これ以後千年近くの間は、支那の影響下に生きていたわけであるが、支那本土の政権の消長に従って多少の政治上の地位に変化を生じたこともある。例えば、秦末の頃、我が453年(BC207)、南越の土豪趙陀(チウ・ダ)が起こって武王と称した時には、越南の交趾(ザオ・チ)などの地は、この覇王に服従したこともあったが、これも史記111巻に見られるように、趙陀が財貨を与えて威武に服せしめたという程度で、未だ完全な領土ではなかったとも言うことが出来る。
 
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 秦の始皇帝が、『百越(粤)地方』「南海(広東)郡」「桂林(広西)郡」「象郡(北越)」に三分割しましたことは、先の記事に簡単に書きました。
 秦が徐々に衰退して来ると、「南海(広東)郡官尉」の部下で、同じく秦から派遣されていた趙佗(チウ・ダ)が、上司から職位を譲り受け、北越にあった甌駱(オウ・ラック)国をBC208年に攻め落としました。そして、ここに「南越国」を建て、自らこの国の国王になり『武王』を名乗りました。
 会社で例えますと、元は秦本社から派遣された海外南海支店駐在員の趙佗(チウ・ダ)さんが、本社が弱体した機会を捉え、北越の地元企業、甌駱(オウ・ラック)社を潰して乗っ取り、秦本社から独立して南越社を設立、南越社社長に就任した、と書くと親近感が湧きますね。。😅

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 漢の時代になり、南越が併呑されたとき、桂林の監居翁なる人物が越南人を説いて漢に朝貢させた。かくのごとく常に支那本堂の強国の附庸国となって此の辺境を治める支那官人の苛政に悩んでいたが、一方、その官人たちのうちの傑れた人物に指導せられ、越南人の生活水準は漸次に昂められた。史記に言う赤裸の國『甌駱裸国』の民も支那文化の光に浴して牛耕、嫁娶の制などを学んだのである。
 
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『越南史略」には、秦の前後をこう述べています。

 「天下を統一した秦は、古い冊封制度を廃止し郡県制度を置いた。井田制度に代わって天幕制度を置き、儒教を禁止し書籍を焚書した。法律を用いて政治を行い、権力を集中させて圧政を敷いた。」
 「このように、支那大陸で彼らの生活風習に大きな変革が訪れていた頃に、趙佗が南越を建国したのであった。趙佗は、この南方の国に支那文明を持ち込んだため、これ以後我々の国もこの文明の影響を受けることになったのである。」

 趙佗が秦から独立して建国した「南越国」も、紀元前111年に漢に降伏し『交趾部』と改称されて9つの郡に分けられました。「越南史略」には、この「交趾部」に赴任して来た「傑れた支那官人」のことが書かれています。

 「1世紀初頭に交趾(ザオ・チ)部へ仁徳ある太守2人が赴任した。1人は交趾太守の錫光。もう一人は九真(クウ・チャン)郡の壬延であった。
 錫光は、西漢の平帝の時に交趾にやって来てから1世紀2、3年までこの地で統治を行った。民間の開化事業に熱心に取り組み礼儀を教育したため、地の人々は皆この人物に敬服し従った。
 壬延は、東漢の建武年から九真郡の統治を行ったが、この頃の現地の人間は、殆どが網漁業か狩猟のみで生活し農耕方法を知らなかった。壬延は、鍬で土地を耕し田を開墾することを教えたので、幾月日も経たないうちにこの郡では沢山の籾が収穫できたという。また彼は、妻、夫を娶る時の婚礼の作法を教えたり、賽銭を義務付けて自分の俸給の一部を貧しい者に分け与えその者らが妻、夫を娶ることが出来るようにした。壬延は九真で4年勤務したのちに出世をして支那に帰り、また他郡で奉職した。九真の民誰もが壬延のことを愛慕して、後に廟を建てお祀りした。土地の者はこの太守を想い続け、自分の子が生まれると「壬」の字を取って名前を付け、いつまでも恩を忘れなかった。」

 こんないい上司が駐在してくれたら、地域の治安は安定し、産業も発展して教育、文化、交通などが整備され、人民も仕事に精進して和やかな雰囲気の中で互助精神が生まれる。。。けれど、やはり良い上司は結構短いスパンで転勤(栄転)するのが世の常なんですよね。。。そして、後任は必ず仕事が出来ないとか、強欲とか、嫉妬深い人。よくあるパターンです。。。😅

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 その後わが685年(AD25)、後漢建武元年に光武帝は越南国との保護国関係にあきたらず、これを領土としようとしたため、越南土候の妻女、徴側(チュン・チュック)と徴貳(チュン・ニ)の姉妹は貴族及び郎党を率いて後漢の太守、蘇定を相手に戦い、700年(AD40)太守を討って王位に上がった。後漢の将、馬援は大軍を率いて之を討伐し、702年に漸く平定し徴姉妹は殺されたが、この姉妹は後世、元の大軍と戦って国土を防衛した陳泰尊(チャン・タイ・トン)興道(フン・ダオ)などと相並んでベトナムの古典的英雄のうちに数えられ、国民尊崇の的となっている。

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 この⇧徴側(チュン・チュック)と徴貳(チュン・ニ)姉妹というのは、2婆徴(Hai Bà Trưng、ハイ・バー・チュン)、現在ホーチミン市一区の大通りの名前にもなっていますね。ベトナム史の中で最も有名な女傑姉妹ですが、背景には何があったのでしょうか。

 「甲午年(34年)建武10年(後漢の)光武帝は蘇定を交趾大夫の太守に任命した。蘇定は性格が暴虐、統治方法は残忍を極め、民は非常に恨みに思っていた。蘇定が庚子年(40年)朱鳶郡(=永詳府、以前の山西省、現在の永安省辺り)に住む詩索を殺害。この詩索の妻は徴側(チュン・チュック)といい、糜冷県(現福安省安浪県夏雷村)の貉将の娘だったが、実妹の徴貳(チュン・ニ)と共に蘇定打倒の兵を起こし、蘇定らは敗走し南海郡まで逃げ落ちた。
 この時、九真郡と日南郡、合浦郡も徴姉妹に呼応して兵を起こした為、徴姉妹の軍はあっという間に65城址を配下に治めて自から王を名乗り、首都を糜冷県に置いた。」       
 『ベトナム史略』より
 
 なんと、漢の太守が横暴だというので、姉妹が先頭になって追い出してしまったんです。。。しかし、当然ですが面子丸つぶれの漢から直ぐに精鋭の征伐軍が派遣されて来ました。

 「 馬援の交趾征伐
 翌年の辛丑年(41年)光武帝は配下の馬援を伏波将軍、劉隆を副将軍に任命し、楼船将軍・段志と共に徴王征伐へ派遣した。
 馬援は東漢の名将、この時すでに70歳であった。しかし勇猛さは衰えず、海岸沿いに軍を引率し、山を破壊し道を作って浪泊まで到着した。そこで徴王の軍と鉢合わせ、両軍打ち合いになるが、徴軍は烏合の衆の集まりであり、歴戦の馬援軍にはとても敵わない。徴王は、禁渓(現永安省永詳府)まで兵を引き上げた。後を追った馬援軍の猛攻を受け、徴王軍は壊滅し、徴姉妹は福寿県の喝門(現在の山西省福寿県)まで敗走する。戦に敗れ憤慨した徴姉妹は、喝江(紅河に繋がる下江辺り)に身を投げ死んでしまった。癸卯年(43年)2月6日のことであった。
 徴王の将軍であった都陽らは九真郡の居封県まで逃げ延び、ここで抵抗を続けたが、馬援軍に攻め入られて、最後は全面降伏した。」
 
 
この様に、徴姉妹の一揆は成功と言っても、結局翌年には漢の征伐軍が押し寄せたことで自治独立は短い期間で終わってしまいました。それでも、この女性(姉妹)による漢の悪代官撃退という痛快劇が、今日まで変わらずにベトナム史の中でも特に人気が高い理由を、編者の陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏はこのように所感を述べています。
 
 「この2姉妹の姓は、徴。王在位3年間であった。女性でありながら類まれな才知を持って義の為に大きな行動を起こし、時の漢皇帝に恐れを抱かせた。この事だけでも、万年永劫に渡り美談として受け継がれる価値があるだろう。現代に至っても、徴姉妹をベトナム民族の英雄として祀る廟が各地に立てられている。 
 歴史家・黎文休(レ・バン・フゥ)は、こう書き残している。
 『徴側・徴貳姉妹は、起兵して65城址を占領、王国を建て権力を手中に収めた。それにも関わらず、趙氏末期から呉氏の時まで約1000年間もの長い時間、我々民族は支那に対して平身低頭し、支那人の家来になった。徴姉妹2人に対して恥かしいと思うことは無かったのだろうか』」

 この「趙氏末期から呉(ゴ)氏の時まで約1000年間」とは、ベトナム史の中では「北属(Bắc Thuộc)時代」と呼ばれ、自主を失った長い長い「北属=中国の属国」時代のことを指します。
 「1000年もあったのに、男子の誰一人も、我こそ第2のチュン姉妹たろう者は出なかったのか?」という意味だと思います。。

 そうは言っても、、ベトナム女性は本当に『強い』🤣ですから。これは仕方ないかも?!😅😅😅
 
 



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