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本の登場人物・時代背景に関する補足説明(13)

『潘伯玉(ファン・バ・ゴック)』
  → 実は、この潘伯玉は、10年もの間抗仏戦を戦った国民的英雄・潘廷逢(ファン・ディン・フン)の子息です。1885年生れですから、生後間もなくから父が病死する10歳まで、ずっと山の中の勤王党ゲリラ陣地で成長したことになります。この勤王党は正に、13歳のクオン・デ殿下が決起統領になる筈だった党で、この党の長が彼の父であり有名な英雄志士・潘廷逢だったのです。父の死後に母と共に山を降りてからも極貧生活を耐え忍び、祖国解放運動に身を投じ続けていた潘伯玉。しかし、仲間の裏切り・策略で、初めて触れた西洋の経済的豊かさに心が折れてしまいました。彼の父は伝説的英雄、そして裏切って行く官僚の多い中、最後まで阮朝に対し忠誠心を尽くし抗仏戦争を続けた功臣でした。英雄の子息潘伯玉に対して、これ以上の罪を重ねないよう、クオン・デ殿下は、自ら、天誅を与えることを決めました。酷い国難の時に生まれ落ちて、生まれた時から山地の砲弾の中で極貧の生活しか知らなかった。その若者の罪は憎んでも、彼自身を憎むことはなかったように思います。 本当の悪とは?それは紛れもなく当時の『植民地主義』でした。。。

『宝定軍官学校』
  → 清国末期から民国初期にかけて河北省保定市にあった北洋軍閥系の軍官学校。将来の陸軍将校を要請する目的で、1919年袁世凱により創設され、蒋介石もここで学んだそうです。

『黎余(レ・ズ)』
  → 潘佩珠の「自判」には、「黎楚狂」「黎狂」の名で登場します。

『潘伯玉はフランスの猟犬に変身』
  → この事件の顛末を、ファン・ボイ・チャウも「獄中記」と「自判」に詳細を書き残しました。

『仏越提携、開化政策』
  → 「協同主義政策を強行し、越南人解放を公約し自治権を与える旨を広言した。行政機構のなかに土着民を導入し、その自由な活動を強化するために一般民衆に対しても教育施設の増強と啓蒙組織の確立に努めた。科挙の制は決定的に廃止せられ、幾多の学校は創立せられ、大学の名を冠する高等専門学校も出来、「国語」の普及に全力を注いだ。」 『安南民族運動史概説』より

『全部嘘なのだ』
  → このことを、大岩誠氏はこう記しています。「然しながら越南人の夢は忽ち幻滅の苦汁と変わった。(サロ―)総督の公約たる自治権の賦与は、まったく一片の空手形となり、(中略)啓定帝がフランスから帰国すると、帝の第41回誕生日を期して、地租は三割の増税となったのを一例として、苛赦斂誅求は改められず、民衆の失望と不満は深まって行った。」        『安南民族運動史概説』より

『欧州大戦時にフランスがベトナム国民を騙していた』
  → 「欧州大戦でフランスが勝った後は、殊に大戦に対する越南人(部隊)の貢献に必ずや報いるところがあるものと信じたもの(協同主義派)も、決して少なくなかったのである。」  『安南民族運動史概説』より

『啓定(カイ・ディン)帝』 
  → この時の即位の事情が語られています。「フランスは咸泰、維新の両帝を逐ったのち、同慶帝の子啓定を立てて位に就かせた。啓定は全くフランスの傀儡たるに甘んじ、皇子永瑞(=第13代バオ・ダイ帝のこと)をフランスに留学させた。」
            『安南民族運動史概説』より

『杭州で潘佩珠と会談』
  → 「サロ―総督の代理としてニョ―(後の公安局長)というフランス人が杭州へ来たのはそれから二か月後、暑い日であった。(後日)会見の場所は西湖の中心にある湖楼亭、潘が同伴した同志は胡馨山、陳有力のほか、いずれも元日本留学生であった。」          『潘佩珠伝』より

『死亡時に所持していた3000元』
  → 「洋服のポケットからは現金2150元、ほかに時価六千元もする豪華な外国製金時計が一個出て来た。」          『潘佩珠伝』より

『阮尚賢(グエン・トゥン・ヒエン)氏』
  → 別名梅山先生。「1907年7月、成泰帝が廃位せられたことに憤慨し官を辞し、それ以後は抗仏活動に従事する。翌年1908年5月広東に居た時、潘佩珠に連れられて日本に立ち寄ると、留学生達は、涙を流して喜んだという。梅山先生が訪日時に書いた「開校演文」「洋学生に勧むる歌」「海外帰鴻集」等は、東京で印刷され、広くベトナム国内に散布した。」     
                 『潘佩珠伝』より

『南定督学の職位』 
  → 「南定(ナム・ディン)省の督学職の事。寧平(ニン・ビン)以北の旧トンキン全州の教育行政を司る重要なポストであった。  『潘佩珠伝』より

『呉佩孚(ご・はいふ)』
  → 山東省蓬莱県出身。保定軍官学校で学び、直隷派軍閥として頭角を現す。内戦に連戦し一時は北京を支配するが、後に国民党・蔣介石の北伐に敗れて引退した。 

『戊戌の変法』
  → それまでの洋務運動の在り方を批判し、維新の実行を宣言、日本に手本を求め、基本方針を定めた。

『宣統復籍』運動 
  → 「宣統」は、清国第10代宣統帝=愛新覚羅溥儀のこと。孫文が辛亥革命で民国建国を宣言したため退位したが、袁世外死後、軍閥混戦の中清国皇帝の復籍運動が起こった。

『回回教徒』 
  → イスラム教徒のこと。

『范鴻泰(ファム・ホン・タイ)』 
  → 「ベトナム国民党党員」 
           『獄中記』より       
    「越南国民党の青年党員」   
         『安南民族運動史概説』より 

『仏領インドシナ総督メルラン』 
  → 「西アフリカ総督の後、1923-25年の間インドシナ総督就任。1924年(大正13年)5月日仏親善の為に来日、帰途広東に立ち寄った時に沙面で襲撃を受けた。」          『ベトナム亡国史他』より

『ビクトリアホテル』
  → 『沙面多維亜飯店』    『潘佩珠伝』より

『死傷者十数人』 
  → 「即死者は領事夫妻、重傷者は翌朝病院で亡くなったフランス租界病院の院長とその随員一名」  『潘佩珠伝』より

『黄花崗の72烈士の墓の目の前に范鴻泰の墓』 
  → 「広東郊外の白雲路に、祖国ベトナム方面を面して建てられた。胡漢民が墓碑銘を刻んだ。」   『獄中記』より
  → 「その年の12月、范烈士の死にいたく同情を寄せていた中国国民党の廖中愷、汪精衛の両氏から光復会に対し、「彼の赫々たる功績を永く後世に記念するため、中国側から公費三千元を支出する故、黄花崗の前の一つの小山の上に彼の記念碑を立てたらどうか」というありがたい話があった。題字は、鄒魯(すうろ)が書いた。」  『潘佩珠伝』より

『ベトナム人革命烈士‐范鴻泰へ敬慕の情を示して』
  → 「この事件の後まもなく、北京駐在フランス公使及び仏領インドシナ政府は、広東督軍政府に対し、ベトナム人の即時追放、被害者の損害賠償を要求、同時に凶悪犯隠匿の罪を陳謝し、将来再びこのようなことがないよう保証を要求して来た。これに対し、広東政府は峻烈な言辞を用いて応酬、断乎フランスの抗議を拒絶した。」     『潘佩珠伝』より

『ベトナム国民党の名前で声明文』
  → この『越南国民党沙面炒弾案声明書』は、大岩誠氏の『安南民族運動史概説』に全訳文が掲載されています。声明文でファン・ボイ・チャウは、「…世界の同胞諸君よ、爆弾事件の首謀者は何人であったのか、其首謀者は決して余人ではない、乃ち非人道的なるフランス政府夫れ自身に外ならぬ。残忍無道なるフランス政府の尚存する以上は、即ち爆弾事件首謀者の探索は無用である。」と記しました。


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