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日本敗戦-『ベトナム現地に残った日本人残留兵たち』-様々な人間模様①

 日本一般国民に、近くて遠い国ベトナム…。😅 
 戦後は日本政府もベトナム政府も、何か重大な秘密でも共有してる様にとても意気投合してるのか…。 それは、”大東亜戦争史にお互い触れないという基本合意”でもあるのか?という私の素朴な疑問です…。😑

 大東亜戦争中第2次近衛文麿内閣時の『仏印平和進駐』(1940)からの日本にとっては、”南進政策=南方アジア進出”が『大東亜共栄圏』建設の要でした。
 その時、日本の庇護下には、阮(グエン)朝開祖直系子孫でベトナム次期国家元首候補だった革命家、阮福民(グエン・フック・ザン、Nguyễn Phúc Dân)=クオン・デ候(Hầu Cường Đế)が、『ベトナム復国同盟会』総裁として東京に本拠を構えていました。
 
 しかし、この⇧周辺の日越交流史を語る日本人が近頃殆ど潰滅状態になりつつある現状に、日越両政府の思惑通りに進んでるな~、と日々一人で悔しい思いを抱えている私😅ですが…、
 最近、我が国の秋篠宮ご夫妻がベトナムをご訪問されましたね。今回のご訪問で、2017年に現在の上皇・上皇后両陛下が面会した事で俄かにスポットが当たった”元残留日本兵の御家族”に、なんと!?またしても面会したそうです。。。
 ふとよく考えれば、皇族の公式訪問に際し、『日本人残留兵のベトナム家族に面会=外務省職員の地味仕事』が、いつの間にか『日本皇族の恒例行事』の如くすり替わった感があり💦💦、これに対しては、昨今の日本外務省の不思議センスに対して疑問を呈したい気持ちもありますが、それはさて置きまして、、、
 日本では普段マイナーなベトナムとベトナム史。でも、”何故、ベトナムに残留日本兵が居るんだ?” や ”何故、ベトナムに残留孤児がいるんだ?”など、一般の日本国民に少しベトナム史へ興味を持ってもらえたかも~、と期待を込め、今日はこのことを取り挙げようと思います。😌😌

 実際、1945年にベトナム現地で『日本敗戦』を知らされた日本人の内、日本へ帰還せずにそのままベトナムに残留した人が大勢おり、その方々の手記が、先の記事仏領インドシナにあった日本の旧高専校『南洋学院』のことで紹介した南洋学院第一期生の亀山哲三氏ご著書『南洋学院』に掲載されています。

 その前に前提として、1945年の日本軍武装解除後も、武器を捨てずにベトナムで戦闘に参加した日本人を、主に4種に分類します。⇩
 ①越盟(ベト・ミン)軍(=北ベトナム軍)に参加
 ②在ベトナム・フランス軍に参加
 ③中南部の解放戦線に参加
 ④フランス国軍の外国人(傭兵)部隊に参加

 少し判り難いですが、上記①と③は前半で対立、後半『反米戦争』枠では共闘(=中国の国共合作に激似😅)しましたが、1975年ベトナム戦争終結で③が駆逐されて、今は①の”我が世の春”(笑)🤐🤐😑 
 ④は、フランス本国から投入された外国人傭兵部隊です。フランス軍大敗でベトナム撤退の契機になったと云われる有名な『ディエン・ビエン・フーの戦い』で、360度丸見えの広場・ディエン・ビエン・フーに何故かヘリコプターでぽつんと置き去りにされました。そこへ、待ち伏せた北ベトナム軍が一斉攻撃を加えたので当然壊滅、悲劇の部隊です。(←多分毎度お馴染み欧米の自作自演。。。🤐🤐😑)
 ”外人部隊には黒人兵
が多かった…”と、この部隊の日本人傭兵だった柘植(つげ)さんという方の回顧録も存在しますが、今手元に無く。。後日アップデートしたいと思います...。

 『南洋学院』に掲載は、上記①と②に参加した南洋学院卒業生=現地入隊兵の手記です。要するに同じ元日本兵が、1945年以降のベトナムでは敵味方に別れて戦ったわけです。
 著者の亀山氏は、南洋学院を繰り上げ卒業、現地で『大建産業』(=当時伊藤忠・丸紅・大同海運の合併会社)に入社後すぐに現地で第21師団歩兵83連隊に入隊しましたが、北部での1945年8月15日をこう回想しています。⇩

 「「状況中止!兵舎まで早駆け!」と叫ぶと同時に軍刀をかついで走り出した。(中略)天皇陛下のじきじきの放送があるので、4キロ離れた稲井山砲隊へ向かった。
 指示通り整列していると、服装を改めた彼(=教官)が出て来て、…天の一角を見上げながら、『昨日の玉音放送は全面的な降伏を告げたものだ
。広島、長崎が新型爆弾で全滅した。当士官学校は解散となった。お前たちはそれぞれの原隊に帰れ。これは師団命令だ』。
 …さまざまな「8月15日」がある中で、日本に引き揚げることを望まず、現地に留まった学院性が4人いた。現在も生死不明の片田弘、安達滋(ともに2期生)、そして戦後10年近くを経て帰国した工藤焘
 、駒屋俊夫(ともに一期生)である。しかも、…工藤はフランス軍、駒屋は越盟(べト・ミン)軍に身を投じ、それぞれ重要な任務についた。
 生と死の淵を再三にわたって彷徨した2人の軌跡はいかなる小説も及ぶところではない。以下は2人の数奇な記録である。」
          
    『南洋学院』より

 そして、下記がその工藤氏と駒屋氏の手記要約です。⇩

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 ■ 工藤焘(盛岡中卒、一期生)*当時北部駐留⇒フランス軍へ
 …翌年の8月15日、日本の降伏が伝わった
。赤地に金の星の越盟旗が「あっ」という間に街に溢れ、民衆のデモがうねって、日本兵の姿がぱったり見えなくなった。…越盟軍の指令、指揮が行き届かず、フランス市民が路上で、住居で、強奪、惨殺された。
 …8月22日、中国軍(国民党軍)が入って来た。これは悪質な軍隊だった。…軍にくっついて入って来た越南国民団や富国会と称する集団と大越党(日本が後ろで操っていると噂があった)が、ホーチミンの越盟(べト・ミン)と、武器を手にして戦った。ハノイはまさに蜂の巣の争乱と化した。

 …昭和21年の元旦…、この頃私は、亜鉛工場長の奥さん(フランス人・65、5歳)から「私の息子としてここに残れ、敗戦の日本には戻るな」とちょくちょく勧められていた。「日本兵が軍を脱走して越盟軍にたくさん入っている」ということも聞いた。…5月の半ばから家族待ちの人を優先して乗船地ハイフォンに送り出した。…全土には多くの離隊者がいたのだが、これという目的もなく、好きになった娘がいたわけでもなく、全くの手ぶらで残留したのは私ぐらいのものだっただろう。

 …ここ
(ハイフォン)で私は初めて、進駐していたフランス軍を見た。近代装備のフランス軍の重車輛やジープが市街をわが物顔に走り回っていた。…残留日本兵のグループにも会うことができた。
 …安南人レ・バン・フック(
工藤氏のベトナム名)が板について越盟軍にも出入りした。越盟軍、これと対峙する大越党、国民党いずれもが軍事知識のある残留日本兵を誘っていたが、ハイフォンで見て来た(怪しい)残留グループの状況から、どうしても彼等と行動を共にする気になれなかった。
 …8月に入って、奥さんからフランス軍に入ることを勧められた。…私が入ったこの隊はフランス第9師団の第6連隊第1大隊の司令部付中隊だった。
 …昭和23年を迎えた私は連隊司令部の第2局勤務を命じられた。この頃から越盟側のテロ、デリラ、宣言活動が一段と激しくなり、都市周辺の村で親仏的な村長一家が惨殺される事件が相次いだ。
 …百姓上がりの11人の
(グループに柔道を教えてくれと頼まれた)彼等は日本人の私の指揮を信頼し喜ぶのだ、かくして…私は上等兵(カポラル)としてこの年6月に師団賞を貰ってしまった。…暮れには、2階級特進の軍曹(セルジャン)に任命された。
 …昭和24年、…ハノイ周辺のパトロール・索敵の軍務につく。…ハドン郊外のタッチ・ビッチ村(カトリック教徒の村)の防衛を命じられた。…村では越盟軍と激烈な戦闘が繰り返され、…死にかけた。ハノイの病院に急送、2度の手術を受け絶対安静の一カ月半を病室で過ごした。
 …退院後、再び何度かの作戦に従事したが、この頃になって私は次第に体力の限界を感じて来ていた。…辞表を出した。執拗な慰留と説得を受けたが、負傷後の体力低下を理由に昭和24年12月末を以て除隊した。
 …昭和29年5月ディエンビエンフーのフランス軍拠点イザベル陣地が陥落、9500人が捕虜となって戦闘は終結した。…12月7日、軍用機でハイフォンを発ちサイゴンへ。
 …昭和31年3月18日、私は14年ぶりに祖国日本へ戻った。

**********

 ■駒屋俊夫(福井中卒、一期生)*当時北部駐留⇒ベト・ミン軍へ
 入隊は山砲の稲井部隊で、(中略)…もはや、我が人生の終わりだと考え、自殺を決意した。…中隊本部から私あてに電話があり「現地除隊が許可された」という。私は自殺を諦め、ならばこのベトナムへ残留しようと決意した。
 …除隊するとすぐに学院卒業時に務めた下村洋行を訪ねた。…当時のハノイは混沌としており、ホーチミンの率いるベトミンと
グエンハイタンの率いる国民党(親中国派)が勢力を争い、いずれも残留する日本人を味方に入れようと活発に動いていた。
 …そんな時、私は窪田と名乗る日本人から一緒に残らないかと誘われた。9月頃だった。…私は頼まれてホーチミン臨時政府の出先機関に一緒に行き、ここで現地残留を申し出た。役所は私たち(=窪田と他3,4名、ベトナム語が話せない)の願いを聞き入れ、私たちの住む土地への添書と通行保証書を発行してくれた。窪田は軍兵站の御用商人だったらしい。
 …
(窪田が去り)半年経って日本人3人と(下働きの安南人老婆と子供)だけとなった。そんなある日、ハノイ下村洋行の依頼なので(通訳を)気易く引き受けたのだが、これが実は大変なことになった。…ハノイ手前のバクニンでバスを降り、残留日本兵の6人がいるという兵舎に行った。一番の年長者が”K”という元大尉で、福井の出身、私の生家南天堂(薬屋)まで知って居た。…話し込んでいた時、一団のベトナム兵が乱入して私たちを拘束した。必死の抗議も功を奏さずKと私は一キロほど離れたダプカウに引き立てられ薄暗い営倉に入れられた。そして忘れもしない陰暦の7月9日の夜が来た。私たちは縄を掛けられ外に連れ出された。…暫く歩いて停止したのは墓場だった。周りを20人ほどの土民兵がとり囲んだ。銃殺だ!
 …暗い夜だったことが幸いした。走り続け、精も根も尽き果ててしまった。…これから一体どうしたら良いのか、気持ちが真っ暗になった。越盟兵士に反抗して逃げた身では、捕まれば殺されるに決まっている。いっそのことフランス軍に入ろうか、とも思った。…(
思い直して)ひたすら歩き続け、とうとうその日のうちに(もと居た)ボハに着いた。
 …これはずっと後になってから聞いた事だが、Kはあれから土民兵に刺殺され、バクニンに残った下村洋行のDと5人の日本兵も営倉に入れられ、手榴弾を投げ込まれたうえ、機関銃で全員が殺されたとのこと。…当時、越盟
(ベト・ミン)とフランスの熾烈な戦いの中で、日本人はその両方から標的にされ、日本人同士ですら敵味方に分かれて戦っていたのだ。
 …昭和21年10月、ホーチミンは全土に抗仏独立戦争の開始を宣言、第一次インドシナ戦争に突入した。
 …私たちは軍事訓練の指導を要請された。今週はこの村、次の週はあの村で、といった具合に、泊まり込みで指導に当たることが多くなり、
 …私達残留兵は、初め民軍
(村単位に組織、県直属)の訓練に参加した。…どこで手に入れたのか日本軍の歩兵砲の扱いを教えてくれと言われてびっくりした。私が徴兵されたのが、前記の山砲隊だったため、これはお手のもの。
 …私などは知識人として高く買われたのであろう。まず算術・国語、次は測地・測量の先生というわけだ。…地図の読み方など知らない者が多いのには難儀した。原図を見つけると、これを手で複写し、読み方を教える、これがみんな私の仕事になってしまった。
 …村から村へと移動するうちに当然、住民との接触が増える。ある村でのことだが、泊めてもらったのが村長さんの家。「日本に帰らないなら、娘の婿になってくれ」と頼まれた。返事に困って部隊の移動までダンマリ戦術を通したが、移動したのがそこから3キロ先の村、この娘がここまで私を追いかけて来たので部隊の皆からひやかされ、困ってしまった。
 …昭和24年の初め、北部軍管区司令部からの命令で軍管部の参謀部作戦班へ移ることになった。ここは越盟軍の中枢である。
 …昭和25年3月、大尉になって初めての出張が命じられた。その日私はリュックを背負い、一人で東北地区の任地へと歩いて居た。…15キロ来たところで爆音が聞こえたので、…案の定
(グラマン機)2機が掃射してきた。合計で八連射を浴びせて敵機は去った。
 …気が付いたのは重傷者のベッドへ運ばれる途中だった。…苦しんだ末、4日目に医師から「助かったよ」と告げられた。
(一カ月後)原隊に復帰し、…参謀本部の情報班(から請われて転属)勤務することになった。
 …こうして昭和29年の春を迎えた時、全く突然に私たち日本人に集合命令が届いた。指定された場所は中国国境近くで私のところからは120キロあった。3日間、日に焼けて真っ黒になりながら歩き詰めで到着した。そこにはすでに数十人の日本人が来ていた。ここで”帰国”のための説明の集合だということを聞いた。私はこの時、もう32歳だった。何度か祖国へ帰ることを夢見ていたが、連日の戦闘である。ベトナム娘との結婚も考え、帰国はほとんど諦めていた。
 何も知らされずに、ここに集合したのだが、ジュネーブ協定をはじめ、世界情勢の推移、祖国の現況等を聞いているうちに、だんだん気持ちが故郷へ飛んでいった。集合した人の中には、妻子があり、財産を持った人もいる。この人たちにとっては深刻な問題だ。一応、何日かの説明を受けた後、帰国を望むか否か、それぞれが決心してくるよう指示された。兵士もいれば、商売人もいる。私のような独り者もいれば、ベトナム妻に子供を何人ももうけた人もいた。
 最集合の期日が示され散会したが、この頃にはディエンビエンフーでの大敗で停戦協定が成立していて、もう空から襲われる心配が無く、往路の道を原隊に戻った。今回の集合が、「帰国の説明と、その準備」であったことを司令部に詳しく報告した。
 …再度集合した日本人は70人だった。独身者はほとんど集まったが、妻子のある人の中には残留する人もおり、またこの場までついて来た妻子と涙の別れを交わしている人もいた。
 昭和29年の秋、トラックに分乗して、国境の街、ランソンを越え、鎮南関を通過して、中国の汽車で大陸を縦断、漢口を経由して天津に向かった。
 …天津に着くと、日本から来ていた新聞記者団に囲まれた。…共産圏の国で10年以上も過ごしてきた日本兵の帰国なのだから、無理もあるまい。

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 ここから判るように上⇧の、「またこの場までついて来た妻子と涙の別れを交わしている」のが、我が国の上皇・上皇后(当時天皇・皇后)両陛下や秋篠宮ご夫妻御公務ベトナム公式訪問された際、日本外務省肝いりで面会日程を組み、ご公務化する『元残留日本兵の御家族』に当たるのかと思います。。。😂😂😂

 次回は、手記内容に基づいてあれこれ検証します。😯😯


 
 
 
 

 

 
 
 

 


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