見出し画像

『クオン・デ 革命の生涯(CUỘC ĐỜI CÁCH MẠNG CƯỜNG ĐỂ )』(Saigon Vietnam,1957)  ~第16章 痛哭の出来事(5.15事件)~

 当時の総理大臣犬養毅が、首相官邸で青年将校らに暗殺された事件、それが『5.15事件』です。日付は、昭和7年(1932)5月15日

 クオン・デ候は、初めて横浜の地を踏んだ1906年4月、数日後に東京へ上京して、まず第一に犬養毅と大隈重信に面会に行きました。
 その日以降亡命者となったクオン・デ候にとって、犬養毅の存在というは、尊父、師匠、或いは身内以上の絆で結ばれていたのではないか、と私は感じています。

 クオン・デ候は、第16章『痛哭の出来事』と題し『5.15事件』の詳細を伝えています。そして、 
 ”『蓋棺論定』と申します故、私如き者が何事か批評するのは不相応です。ただ、犬養子爵への私の個人的な追憶と、昔日の話を致します。”
 
 と、予め断りを入れて、ご自分と犬養毅氏との個人的な想い出を綴っています。本当に心から、犬養毅首相を尊敬し畏敬していたのだと思います。
 
 1915年に日本に戻って来たクオン・デ候と在日本ベトナム運動家達を資金面で支え続けてくれたのも、犬養毅氏でした。当時のお金で毎月50円(後に150円)をベトナム革命へ援助してくれました。

 しかし、私は不思議なんですが、なんでこれらの良い話を日本の外務省はスルーするんでしょうね?? ODAなどでベトナムにお金をバラまくより、余程両国友好促進になるのに…。戦前の日越間の”良い話”は、全て完全スルーを続ける戦後日本…、特に外務省…。😂😂😂
 仕方ないので、明日の日越友好の為、未来の両国子供たちの為、外務省の代わりにNOTEで発信を続けて行きたい。(笑)

 5.15事件は、1932年に起こりました。一応、この当時の世界と日本の情勢を拾ってみますと、
 1929年~ 世界恐慌 日本金解禁
 1931年  柳条湖事件
 1932年  満州国建国
 1933年  日本国連脱退

 何とも物騒で激動の時代でした。。そこで、私が不思議なのは、こんな物騒な世の中で、首相官邸は簡単に侵入できる場所だったのか??と。🙄🙄 
 曲がりなりにも総理大臣の官邸なんですから、幾重にも警備が張り巡らされ…、暴漢の侵入に備えて隠し部屋のような場所があったりとか…、しなかったのかな??😅
 
 しかしそうは言っても、当の犬養毅首相ご本人が、暴徒に銃口を向けられても全く臆することなく逃げ隠れせず、撃たれた後も尚落ち着き払い、血まみれの手に煙草を持ち家政婦に火を付けさせると、こう言ったそうです。
 「彼らを呼びに行って来なさい。話して聞かせるから。」 

 

(1932年5月15日)


**第16章 痛哭の出来事(5.15事件)**


 日本には数十年間も滞在しましたが、その間出会った最も辛く悲しい出来事は、 私の庇護者であった犬養毅子爵が暗殺された事です。

 それは、昭和7年(1932)5月15日でした。未だによく覚えています。
 その日の午後7時頃、私が家に居ると、突然犬養毅首相が暗殺されたという噂話が聞こえました。心底から驚愕したが信じ切れず、成否を確かめようと永田町の首相官邸へ駆け付けました。

 官邸の門は軍兵が厳重に警備をし、駆け付けた多くの人々は中に入る事が許されず、門外はごった返しています。
 皆が私と同じく、凶報を聞いて成否を確かめに駆け付けた人達でした。
 
 犬養首相の暗殺は事実でしたが、詳しい状況は確かめることができません。皆一様に落胆し、帰って行きました。その夜私は、殆ど眠ることが出来ませんでした。

ここから先は

3,040字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?