見出し画像

ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』⑦『年表・第二期(1900年~)・曾抜虎(タン・バッ・ホー)

ベトナム革命志士 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)自伝『自判』
ベトナム志士義人伝シリーズ
本の登場人物・時代背景に関する補足説明(7)

******************

曾抜虎(タン・バッ・ホー)


 それから間もなく、北圻からやって来たタン・バッ・ホー氏がテウ・ラ先生邸に到着した。 私と彼の一番最初の面会だった。バッ・ホー氏は年齢40歳過ぎ位で髭の剃跡蒼々と、全身から漲る英気は一瞥して勇猛歴戦の志士だと判った。
 お互い座して話を始めると、彼は外国情勢を詳細に語り、話は現在の支那政界要人にまで及び、筋道を立てて説明し、明朗に話を進め、語り聞かせる。ここで彼に出会えたのは天恵だった。私から日本渡航の計画を打ち明けると、彼は言下にこれを承諾し、加えて言うには、
 「我ら2人共が外国に行けば、どちらか一人が祖国との間を往来し、国内の消息やその他の連絡を途切れさせない必要がある。だが、その任務は容易ではない。長年鍛錬され艱難に耐え得る忍耐力が必須、且つ実務経験が豊富でなければ担うは到底無理でしょう。」
 その場に同席していた鄧子敬(ダン・トゥ・キン)氏と
テウ・ラ先生も、バッ・ホー氏の意見に同意だった。バッ・ホー氏は、年齢40歳余で勤皇党員として数年間も奔走した経験が有り、我が革命党へ新しく入党した同志らの中でも傑出した人物だ。それに、彼はグ・ハイ氏の叔父でもあった。
 これで、計画は纏まった。それ以外の国内でやり掛けていた諸々の仕事は、数か月掛けて処理に奔走した。

 8月に入ってから再び北圻に上がってマイ・ソン先生や孔(コン)督辨翁、その他の同志達と会談を持った。その後9月にはゲ・ティン省の友党を各所に訪ね、10月はクアン・ビンへ行って以前から交流があった通(トン)氏や泉(トェン)氏らなどバ・ドン村のキリスト教小グループを訪ねて打ち合わせをした。このグループの人々も、元々は賢(ヒエン)氏、厚 (ハウ)氏の党の生き残りであり、侵略者フランスへ深い憎悪を持っていた。また、学善(ホ ック・ティエン)や秀定(トゥ・ディン)運動の有志らも私に会いに来て、我が党への後援を申し出てくれた。そこへバッ・ホー氏が北圻へやって来たので、私は入れ替わりで今後はフエへ戻って行った。

 11月、とうとう国子監と訣別する日が来た。翌年1月に郷里へ戻る申請書を提出し、学生仲間へは次回の会試で会おうと約束した。2年間も籍を置いたが、ここで同志と呼べた者はたった一人か二人に過ぎない。

 一月上旬にグ・ハイ氏とダン・トゥ・キン氏と共にテウ・ラ先生宅を訪ねた。内密の内応者だった烏耶(オ・ザ)の程氏、尊室遂(トン・タッ・トアイ)氏、朱書同(チュ・トゥ・ドン)氏ら3、4人も混じえて、今後の計画の役割分担を決めた。まず、出洋の事は私とタン・バッ・ホー 氏、ダン・トゥ・キン氏の3人でこれを担う。党内部の業務は全てテウ・ラ先生とグ・ハイ氏へ一任した。この打ち合わせを終えたので、テウ・ラ先生に挨拶をして出発した。私の万里の行程はこの日より始まった。 この日以降、ダン・トゥ・キン氏だけがテウ・ラ先生宅へ単身往来する任に就いたので、 私とバッ・ホー氏にとっては、この日が先生との永遠の別れとなった。

 友人の生死など、他人にとっては別に大した問題ではない。だが私は、空が裂け暗い闇夜に叩きつける雨風の中、さ迷う幾つかの魂の叫ぶ甲高い声が響き渡る、そんな夢ばかり見る。この苦しさはどうしたものだろうか。

 翌朝私はフエに入った。クオン・デ候の邸に参上して、出洋計画の進捗を報告した。来る日には、クオン・デ候にも出洋して頂きたい旨を伝えると、候も日本の東都へ上がる決心を調えていた。

 1月中旬に郷里の自宅へ帰った。それ以前の数年間というもの、南から北へ5、6回程往復してゲ・アン省も通過していたが、自宅には帰っていなかった。村人は私が単なる会試受験生としてフエに滞在していると思って居たが、今や時至り、既に計画が走り出したのだから一度郷里に帰らねばならない。先祖の仏壇や墓に関する諸々の片付け等に1週間位を掛け、1月30日は我が家にタン・バッ・ホー氏を迎えた。
 それから、黎瑀(レ・ヴォ) 氏、隊涓(ドイ・クエン)氏が自宅に姿を見せ、少なからぬ旅費を献上してくれた。また特には
、陳東風(チャン・ドン・フォン)氏から白銀15枚の有難い喜捨が有った。この時はまだ一 度会っただけの仲だったが、彼の豪儀は大変有難く、嬉しくこれを頂戴した。
 集まった寄進は、合計で3千ピアストル(=仏領植民地通貨単位)あった。同志達からとテ ウ・ラ先生の個人献金、それと先生の運動に依るもの。それ以外に朱書同(チュ・トゥ・ドン) 氏からは4百ピアストルの献金があった。

 乙巳(1905)年1月朔日、バッ・ホー氏に北圻へ向かってもらい、私はナム・ディン省督の孔定澤(コン・ディン・チャック)氏邸に滞在した。見慣れぬ人間の出入りを怪しまれぬ様に充分注意を払った。

 旧正月(テト)休み明けの4日は、仲間の同志数十人を自宅に招いて酒を囲んでの旧正月宴会、即ち同氏達との別れの宴を張った。宴の後、その当日には、郷里の村人へフエで国子監官人として働くと告げてから即自宅を離れた。レ・ヴォ氏の案内で乂(ゲ)省城に登ったが、この時の同行者はダン・トゥ・キン氏、陳文炳(チャン・バン・ビン)氏のみであった。

 ハ・ティン省出身のチャン・バン・ビン氏は、私にナム・ディン省を案内してくれた人でキリスト教徒の豪傑だ。西洋書籍を研究して、独学で長身鉄砲と弾薬を自家製造した類まれなる才能の持ち主だった。だから、近い将来の義挙を考えて、私は先ず彼と結びついた。 私が出洋した後は、彼は北圻に上がり方林(フゥン・ラム)省の山に入って鉄砲を製造したが、山特有の瘴煙(しょうれい)の病に罹り病死してしまった。稀なる才能を持った志士をまた一人失ったのは、残念極まりないことだった。

 出洋の途に出たばかりの時に、挙人陳文良(チャン・バン・ルオン)氏の家に立ち寄ってここで一晩世話になった。彼の家は貧しかったが、私とは学友の仲で、此の度私は遠くへ行っていつ戻るか判らないと言うと、家の隅から隅と衣服のポケットからかき集めた10ピアストルを贈ってくれながら、こう言った。
 「君は私の10年来の親友だぞ。君は今回一旦出れば万里の行程だ。さあ、これは一年一ドン(銅=補助通貨単位)の利息付きだ、それ以外、俺は何も知らん。」
 私は大笑いして、彼の義を有難く受け取った。

 ゲ省城に上がって、台山鄧(ダン)先生に謁見した。当時ゲ・アン省督学の職位にあった先生だったが、私に会って言うことには、
 「君、兎角行きなさい。今国内での最重要事項は国民の開化、それに人材育成だ。その仕事は、国内に残る私と集川呉徳計(ゴ・ドック・ケ)氏達などの仲間で担って見せよう。」
 この日、初めてグ・ハイ氏を先生へ紹介して、共に一晩中語り明かした。

 そして、翌日列車に乗り込んでナム・ディンまで行き、督辨孔定澤(コン・ディン・チャック) 邸に着くと、既にタン・バッ・ホー氏が先に到着していた。ここに数日間逗留させてもらいながら、旅費が届くのを待った。自宅を出た時には大金を携帯出来なかったから、クアン・ ナムとハ・ティンに住んでいた友人2人に頼んで、其々別々の道を取ってこの家まで持って来て貰った。 その月の15日に、資金を携えた2人が到着した。その資金を得、チャン・バン・ビン氏は南圻へ発った。私とバッ・ホー氏、トゥ・キン氏はハノイで汽車に乗り、海防(ハイ・フォン)まで行った。ここからの旅は、何処へ行くもバッ・ホー氏の知り合いが居たお蔭で滑るように順調に進んだ。そして、20日にハイ・フォン港で茫街(モン・カイ)行の西洋船に乗り込んだ。
 
 これ以後は、出洋以後の私史、その顛末の全記録である。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?