「はずだ」的学び
noteに自分の思いを書き始めてから、9か月が経ちました。その間に主に書いてきたことは、「ワプニック博士の解説には間違いが含まれているのではないだろうか?」という問題提起です。わたしがnoteを書き始めた当初は、博士の解説に疑問を呈している人の言説を目にすることが、ほとんどありませんでした。そういうこともあり、「だったら自分で書いてみたらどうだろう?そうすることで何かが起こるかもしれない」と思い、書き始めたところもあります。
わたしが、「コースはワプニック博士の解説を通してのみ学ぶ」と決め、学んでいる方々と接してきて感じてきたのは、「はずだ」的学びになってしまっているのではないだろうか?ということです。「はずだ」的学びとは、わたしが勝手に作った言葉ですが、「〇〇だから、〇〇のはずだ」という想定の元で、行われる学びことをそう呼んでいます。
わたしが、まだJACIMフォーラムに所属していたころ、ある女性と知り合い、メールでやり取りすることになりました。その女性は、このようなことを言っていました。「コースの最大かつ最高の理解者は、ヘレン、ビルと一緒に、編集作業に関わったワプニック博士であり、その博士の元で長年学んできた、加藤三代子さんの元で学ぶことが一番近道だと思ってます」と。わたしも、同じようなことを思って学んでいた時期もありましたので、その女性がそのように考える気持ちはよく分かりました。でもこれは、「ヘレン、ビルと深い関りを持ち、編集作業にも関わった博士が言っているのだから、博士が言っていることは全て真実のはずだ」という想定がまず最初にあるような気がします。そして、このような想定は、多くの人を信じさせるに足る十分な説得力があるように感じます。だからこそ、多くの人がそう信じて、学んできたのだと思います。でも、「真理の探究」におけるそのような学び方は、本当に正しいのでしょうか?
ヨガを始めたこともあって、最近「古典ヨガの基礎知識」という本を読み始めたのですが、本の「はじめに」に、次のようなことが書かれていました。
また、「キリストにならいて」(トマス・ア・ケンピス)という本の中には、次のようなことが書かれています。
ワプニック博士の解説を通してのみコースを学ぶと決めている方々は、天国への最短距離を歩みたいと願うばかりに、「博士が言っていることは正しいはずだ」という想定の元での学びになってしまっており、真理の探究におけるこのような姿勢をないがしろにしてしまっているのではないだろうかとわたしは疑問に思うのでした。
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