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奇跡のコース(奇跡講座)の学習者。おもに、ケネス・ワプニック博士の解説には間違いがある…

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奇跡のコース(奇跡講座)の学習者。おもに、ケネス・ワプニック博士の解説には間違いがあるのではないかという考察を書き散らかせていただいております。

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これまでずっと、noteは閲覧専門だったのですが、 A Course in Miracles(奇跡のコース/奇跡講座)を学びながら、 これまで感じてきたこと、考えてきたことを書いてみたいと思い、書くことにしました。 恐らくは、まとまりのない、雑多な文章になってしまうかと思います。 それでも書くことによって、 見えてくるものがあるかもしれません。 何かこれまでとは違った変化が生まれることもあるかもしれません。 結局、なんにもならず、ただ恥をかいただけで終わってしまうというこ

    • 内に攻撃性、快楽への欲求、プライドを秘めながら、よい人であるかのように振る舞おうとする自分。そして、自分の望んでいた通りの評価を他者から与えられると、ひどい自己嫌悪、羞恥心に見舞われる。自分が無垢なる存在であることはあり得ない。

      • 心の中の想念に対して良し悪しの判断を下すことは、想念に対して力を与えることになり、聖霊による訂正を不可能にする。想念を手離すということは、想念に対する良し悪しの判断を手離すということなのだろう。

        • 聖霊の具体的な導きについて

          聖霊による具体的な導き(以後、聖霊の導き)について、どう考えるのかということは、コース学習者の間でも、統一的見解はないように感じます(学び方は人それぞれですので、統一的見解の必要などないかとも思いますが)。ワプニック博士の解説のみでコースを学ぶと決めた学習者の方々の間では、聖霊の導きは、全面否定ではないものの、否定されがちのように感じております。どうして、ワプニック博士は、当初は博士も肯定的であった聖霊の導きを否定するようになったのかといえば、それは学習者の多くが、自我の闇と

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        • 内に攻撃性、快楽への欲求、プライドを秘めながら、よい人であるかのように振る舞おうとする自分。そして、自分の望んでいた通りの評価を他者から与えられると、ひどい自己嫌悪、羞恥心に見舞われる。自分が無垢なる存在であることはあり得ない。

        • 心の中の想念に対して良し悪しの判断を下すことは、想念に対して力を与えることになり、聖霊による訂正を不可能にする。想念を手離すということは、想念に対する良し悪しの判断を手離すということなのだろう。

        • 聖霊の具体的な導きについて

          自分の罪深さを認識する(咎めずにみる)ことは、聖霊の訂正へと繋がるけれど、自分の罪深さを抑圧し、無垢なる顔を装うならば、その罪は聖霊からは隠され、訂正不能になる。

          自分の罪深さを認識する(咎めずにみる)ことは、聖霊の訂正へと繋がるけれど、自分の罪深さを抑圧し、無垢なる顔を装うならば、その罪は聖霊からは隠され、訂正不能になる。

          ワプニック博士の最大の功績

          わたしがワプニック博士の解説について書くとき、これまでは、その解説に対し疑問を呈するということが多かったですが、今回は、わたしが思う、コースの学習環境におけるワプニック博士の最大の功績について書いてみようと思います。結論から申し上げますと、それは、コース学習の主眼は、「自我の闇から目を逸らさずに観察し続けること(愛の現存を自覚不能にしている障壁を取り除くこと)」ということを明確にしたことではないかと考えております。 コースとその他の霊性の道の大きな違いは何かと言えば、それは、

          ワプニック博士の最大の功績

          ワプニック博士の解説には誤りが含まれているとは思っているけれど、とはいえ、博士の解説を学ばないと、自我の働きに対する認識が難しくなるところもあるように感じる。もちろん、どんな学び方が正しくて、どんな学び方が間違っているなんてことは、自分にはさっぱりわからないのだけれど。

          ワプニック博士の解説には誤りが含まれているとは思っているけれど、とはいえ、博士の解説を学ばないと、自我の働きに対する認識が難しくなるところもあるように感じる。もちろん、どんな学び方が正しくて、どんな学び方が間違っているなんてことは、自分にはさっぱりわからないのだけれど。

          私たちがすべき唯一のことは、自分の中で自我がどのように働いているのかに気づいていくことなのではないだろうか。気づいている時、自我との同一化から離れ、自ずから訂正は為される。

          私たちがすべき唯一のことは、自分の中で自我がどのように働いているのかに気づいていくことなのではないだろうか。気づいている時、自我との同一化から離れ、自ずから訂正は為される。

          聖霊は真の自己と表現されることが多いけれど、自我そのものになっているわたしたちがそのように考えることは、自我の罠にかかることであり、全ての学びが自我の目的に使われることになる恐れがあるのではないだろうか。

          聖霊は真の自己と表現されることが多いけれど、自我そのものになっているわたしたちがそのように考えることは、自我の罠にかかることであり、全ての学びが自我の目的に使われることになる恐れがあるのではないだろうか。

          自分の中に自我の部分と聖霊の部分があるというより、自我と同一化し、丸ごと自我そのものになっているわれわれは、その身のまま、聖霊に身を任せる他ないと考えたほうがよいのではないだろうか。罪悪深重、煩悩具足のわれら。

          自分の中に自我の部分と聖霊の部分があるというより、自我と同一化し、丸ごと自我そのものになっているわれわれは、その身のまま、聖霊に身を任せる他ないと考えたほうがよいのではないだろうか。罪悪深重、煩悩具足のわれら。

          「決断の主体」という言葉によって、コースの中にある「自力無効、絶対他力」の教えが分かりづらくなっているのではないだろうかと、ふと思った。「決断の主体」という言葉によって、コース理解が難しくなっている気がする。「主」はイエスにあると考えたほうがよいのではないだろうか。

          「決断の主体」という言葉によって、コースの中にある「自力無効、絶対他力」の教えが分かりづらくなっているのではないだろうかと、ふと思った。「決断の主体」という言葉によって、コース理解が難しくなっている気がする。「主」はイエスにあると考えたほうがよいのではないだろうか。

          コースにおける心の訓練とは、自分、自ら心をコントロール出来るようになることではなく、自ら心をコントロールしようとすることをやめる訓練ということではないだろうか。心に良し悪しなし。ただ観察。じっと待つ。自ずからが現れ出ずる。赦し。

          コースにおける心の訓練とは、自分、自ら心をコントロール出来るようになることではなく、自ら心をコントロールしようとすることをやめる訓練ということではないだろうか。心に良し悪しなし。ただ観察。じっと待つ。自ずからが現れ出ずる。赦し。

          人は誰かのことをすごいと判断すると、その人に間違いがあった場合、その間違いまでもを無条件に丸ごと呑み込んでしまおうとする危うさがあるのではないだろうか

          人は誰かのことをすごいと判断すると、その人に間違いがあった場合、その間違いまでもを無条件に丸ごと呑み込んでしまおうとする危うさがあるのではないだろうか

          コースを学んでいると、現実に感じている苦悩に対して鈍感になることが正しく学んでいることになると錯覚してしまうことが多々ある。

          コースを学んでいると、現実に感じている苦悩に対して鈍感になることが正しく学んでいることになると錯覚してしまうことが多々ある。

          コースは自我から解放される為に学ぶというより、自我と同一化している私たちが独力で自我から解放されることは不可能であるということを認識させる為のものと考えたほうがよいのではないだろうか

          コースは自我から解放される為に学ぶというより、自我と同一化している私たちが独力で自我から解放されることは不可能であるということを認識させる為のものと考えたほうがよいのではないだろうか

          よい人になろうとすることは、自分で自分を救おうとすること。煩悩具足、罪悪深重の我らは、救われることでしか救われない。

          よい人になろうとすることは、自分で自分を救おうとすること。煩悩具足、罪悪深重の我らは、救われることでしか救われない。