芥川龍之介『芋粥』
なんでこの作品について書きたいかというと、前「さんまシリーズ」について書いたときにひろしが大やけどを負って、その治療にお金を充てるためさんま丸一匹をひろしにしかやれず、申し訳ない思いをする母親の気持ちをくみとって、ひろしはさんまを兄弟に分けるというエピソードがある。・・つまり何が言いたいかというと、夢が叶いそうだったのに、それをあっさりと放棄してしまうという物語の枠組がよく『芋粥』に似ているからだ。
この物語は「狐」の解釈がポイントらしい。狐は主人公の運命が単純なハッピーエンドで終わらない不吉な存在らしい。そうか?と思う。フランスの話をすれば、狐に関する話(もっとも有名なのは『星の王子さま』)はたくさん出てくるし、アンデルセンの童話でも出てくるし、日本でも『ごんぎつね』などに見られる。単純に自然においては身近な存在だったから登場したに過ぎないのではなかろうか。それともそうとしか思えないのは自分の頭が悪いだけなのだろうか。
都から一歩でもでたら、そこは怖ろしい物の怪ともなんともしれぬものが潜んでいる世界・・と大ざっぱに読むことはできるが、書く立場なら、三井寺やら固有名詞ののっかている古地図が必要で、馬で一日何キロ移動できるかということも必要だろう(欲を言えば、道行きの地形。京都から近江の国に行くには山を越えねばならず、そこが難所になると思われる。もっと欲を言うなら、地面の状態。作品には出てこないが、「昨夜の降雨で地面がぬかるんで、駒も足をとられ、随分難渋してゐるやうだ・・」のような一文があると引き締まると思う。)。
やはり中心となるテーマは芋粥をちょっとすすって辞退した五位はなぜ粥を辞退したのだろうか、ということだろう。それは思うのだが、最終目標を達成することだけが喜びではないからだ。最終目標を達成するプロセスに喜びがあるからだ。滝に登るためにエスカレーターが完備されていたらつまらないだろう。
それにしてもこれは名作である。変な高い理想を最終目標にもってこず、~を食ってみたいという誰でも抱いたことのある、ある意味俗なものを最終目標にもってくることで、最終目標をかなえること自体は必ずしも重要ではないという上に書いた作品のテーマが浮き彫りになるし、我々にも共感可能になると思われるからだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?