ゲーテ(荒俣宏訳)『ファウスト』(2011)

これは文学作品史上名作らしい。だから付き合ってやることにした。読後感は詰まらないだった。

なんでつまらなかったかというと、ブロッケン山に魔女が集まってサバトを開いてどうのこうのっていう下りが朝の戦隊ものを見せられているようで、幼稚くささを感じてしまうからだ。

本文よりオモチロイのは(水木しげる氏の言葉づかい。笑い声を「ケケケ」と表現するなど、荒俣氏は盟友水木氏の影響を大いに受けていると思われる。)荒俣氏の訳注である。現代人の文章だから訳注だけポッと浮き出たように本文の繁みから表れ読みやすく楽しい。また荒俣氏が単なる一般の研究者ではなく、博物学的な知識を持っている氏による解説は衒学趣味を満足させてくれるものだと思うのだ。

訳注ついでに言うと、氏の訳は英語からの重訳だとか。その所以は置いといて、ここを読んだために『ファウスト 第二部』をマジメに読もうとはますます思わなくなる。そういう話題がでてきたら、適当にやり過ごそうかと思う。すなわち350頁の訳注4において

「またゲーテの死の直前、四半世紀を隔てて刊行された第二部は、執筆自体が矛盾解消を意図したものと思われるが、肝腎のラストでファウストはメフィストフェレスの意図を誤解し妄想を展開してこの言葉『瞬間よとまれ、おまえは美しい』を呟く。安寧の心境の根拠が妄想とは、ファルスの結構そのもの。おまけに奪われる筈のファウストの魂は意味不明に救済されてしまう。ドラマの体を成していない気がする。」(350頁)

ここからは完全な推測で荒俣氏に直接訊かないと分からないが、おそらく「ファウスト」がオカルト趣味を満足させてくれる文学作品として荒俣氏に訳業の白羽の矢が当たったのだろう。でも売上げが芳しくなかったから第二部が訳されなかったのだろう。

この小説は多数の文学的イメージを喚起するものとして、東西を問わず珍重されてきただろう。でもこの物語の意匠をそのままの形で用いるというのは賢くないと思う。

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