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SNSを通した一期一会

一番最初に手を出したのは「GREE」

20代初頭の頃は、大学にも仕事にもまだまだ中途半端なところがあり、逃げ場所として使い、時としてゲームに夢中になっていた様に思います。
毎日、**のゲームをして気を晴らしているという感じでしかなかった。
当時からGREEは、連絡先の交換を厳戒態勢でいた。
確かGREEのサイトを悪用した事件が発生した事が有ったのが原因だったと記憶している。そのため、あの手この手で連絡先を交換した記憶がある。
ある時はパチンコの出玉で9番台で1234発を出してその後、5678発を出したよ!というと、09012345678という事になる。グリパトに見つからない様に一生懸命隠したものである。

限られた世界の中で

その当時はスマホもなければ、インターネットがここまで広かった時代ではないので、まだ文通もあった時代である。携帯電話でやり取りをすると言っても、iモードや携帯メールでのやりとりや文通で話す程度だったが、県外の友達と話すのは、すごく新鮮だった。
大学でも県外の友達はスクーリング授業の兼ね合いでいたけど、とても新鮮さが有ったことを昨日のことのように覚えている。
今の様に当たり前のような時代ではなかったと思っている。

お互いの地元の味のお菓子を贈り合って感じた味

関西の味で育ってきた私にとって、他県の味が濃いと感じたのは言うまでもなく…。九州のしょうゆは甘い。東の地域はしょっぱい。
せんべいの味が、こうも違うのかという事を食べ物を通して実感した。
スイカやメロン、柑橘系を送って貰って、仏壇の父はきっと喜んだろうなと思う。生きていれば一番、喜んだろうと思いながら。
6年前からは、母も父の元に行き、父と一緒にあの世で他地方の味を楽しんでいるだろうか。
落花生最中や陣太鼓・いきなり団子、ネーミングも凄いがとても美味しかった。
それぞれが懐かしく思う。
物産展で値段を見て驚く事が多かった。
それも今は昔。
ゲームを辞めた私。再び、学びの世界に足を踏み入れ、ゲームとは決別しGREEを退会し、Facebook・Instagram・Twitterへと足を踏み入れた。
今も繋がる仲間ではあるが、20年以上の時が経ち、現実が忍び寄る。

病に倒れた友達

すい臓がんのステージⅣで、医師からは1年生きられない。
来年の誕生日(彼女は7月生まれ)は迎えられないと言われたらしい。
それを笑いながら話してくれた友達に心を痛めた。
なぜ、いつも定期的に病院受診していたのに…と思う。
黄疸ができてやっと気付いて大学病院に駆け込んで宣告されたという。
それが2022年9月6日の話。
同じ日、私は5月の通勤途中のケガが原因による治療過程で同じく
再び、同じ様には動かない左腕には力が入らないので、介護士としては働けない宣告を受けたのも(一時的に)忘れ、ショックで泣いたことを覚えている。もう一度の想いがあり、会いに行きたかったけれど、弱っていく自分を見て欲しくはないという。私が黄泉の国へ行ったら、お参りに来てね!というにとどまった。
GREE繋がりの仲間のお守りと一緒に再び入院して、一時期、危なかったと笑った友。再び持ち直した様だが、せん妄が出ていると聞いた。
覚悟は要る様だ。
母のことや元介護士で医療知識も多少なりとも持っているため、そろそろの覚悟がいるとみている。
本人とも連絡が取れなくなった。
勉強ばかりにうつつをぬかしておらず、もう一度、会いにいけばよかったという後悔は残る。
時折、見かける「会いに行きたい時に会っていないと後悔する」のは事実。
会えるうちに相手も自分も元気なうちに後悔しない様に会っておく、それに限るという想いと共に、友を見送らなければならない現実をまもなく迎えるのだと感じていた。

そして、年は明けた。
状況分らず、別の友から話を伺いつつ、まだ大丈夫との想いも虚しく
2024/1/20に天国の旅路へと旅立って行かれたと聞いたのが、養成講座の従業前。悲しくても涙することが出来ず授業を受けたが途中でバテた。
初七日が過ぎた。
友へ、何もなくてよかった。ただ1日でも長生きして欲しかった。
出逢ってくれてありがとう。

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