自分の痛みに繊細でありたい
痛い、辛い、きつい、苦しい、厳しい、しんどい。
自分の身体から必死の悲鳴が聞こえてくる。
痛くない、辛くない、きつくない、苦しくない、大丈夫、大丈夫。
俺は、呪文を唱えて悲鳴が聞こえないふりをして、肩にぐっと力を入れて背筋を伸ばし、顔を挙げた。今日が始まる。
わたしたちは、日々多くの痛みや苦しみを背負って生きている。あまりに痛くて苦しくて立ち上がる気力をなくしながら、それでも立ち上がって毎日を生き続けている。
本当は、「辛い」や「きつい」と口に出して言いたいところだけど、それを無理やり喉に閉じ込めて、何食わぬ顔で毎日を過ごしている。
目の前の人や自分を取り巻く環境や、あるいは自分自身さえも、どうしようもなく許せなくて、恨めしくて、しんどくて、それでもなんとか平穏を着こなして毎日を暮らしている。
朝井リョウの小説「そんなの痛いに決まってる」に登場する「吉川さん」は、俺と程遠い存在ではないのかもしれない。
主人公の元上司の吉川さんは、「大丈夫」が口癖の、誰よりも長く働き、そして部下にも優しい社会人だった。そんな吉川さんに主人公はかつて趣味を尋ねると、その答えは「ふらっと遠出」であった。それは、「思ったことがそのまま声に出るから」であった。
やがて主人公は転職をし、吉川さんと別れる。そしてのちに、SM動画が流出したことで吉川さんが退職することになったと聞く。主人公は、自分自身の生活のしんどさと吉川さんを重ねながら、吉川さんが「きっと、痛くて仕方がないと言いたかった」のだろうと思いをはせる。吉川さんがSMを好んだのは、「痛いときに痛いって大きな声で言えること」を求めていたからだと主人公は気づく。そして、自分自身もまた痛いと感じていることを、そして痛いときに痛いと言えていないことを突き付けられる。
吉川さんも、物語の主人公も、そして俺も、全員同じだ。毎日本当は痛くて、辛くて、苦しくて、しんどくて。泣き叫びたいほど痛いはずなのに、痛くても痛いと言えない。
痛いときに痛いと言えないのは、別に特定の属性によるものではないと思う。ただ、杉田俊介の男性性をめぐる議論が俺や吉川さんを射抜くものであることもまた確かだろう。
杉田は、『マジョリティ男性にとって、まっとうさとは何か?』という著作で、「多数派男性としてのまっとうさとは、何でしょうか?」と問いかける。そしてその答えを、「『傷つけられやすさ』に対する繊細な感受性」に見出す。「まっとうさ」として挙げられるのは以下のようなことだ。
杉田が言う「男性としてのまっとうさ」とは——そして同時にこれは「人間としてのまっとうさ」でさえある——、他でもない、吉川さんが欲していたはずのものだ。痛みを痛みとして実感し、痛いものは痛いを言えること。たったそれだけに見えることが、吉川さんには——吉川さんに代表される「多数派男性」には——できていない。
これは、被害者意識ではない。「自分たちも被害者なんだ」と言うような被害者意識は、かえって「自分の弱さ、傷つきやすさを自分の目からも覆い隠してしまう」。私が痛いと叫ぶことは、目の前の誰かは痛くないと叫ぶことではない。私は私として確かに痛みを感じているのだと、加害-被害関係の外で自分の痛みを感じられることこそ、杉田の言う「まっとうさ」である。
俺は、自分の痛みを自分の痛みとして感じられていただろうか。日々を送ることに精一杯で、自分の痛みに鈍感になってはいないだろうか。
人から褒めてもらえることがある
「**ってすごいよね」
「**はやっぱさすがだわ」
特段皮肉ですらない、純粋な誉め言葉。それを受けて、ますます俺は自分のしんどさを、苦しさを口にできなくなる。ぐっと顔に力を入れて、笑顔を作る。「でも痛いんだ」って、こぼすことができなくなる。
杉田が言うように、痛いものは痛いと「公然と主張できる」といいのかもしれない。あるいは、吉川さんのように、物語の主人公のように、「大きな声で叫ぶ」ことができれば楽になれるのかもしれない。
でも、たとえそこまでできなくても、痛いものは痛いんだと、認めてあげたい。自分の痛みに、繊細でありたい。
痛い、辛い、きつい、苦しい、厳しい、しんどい。
自分の身体から必死の悲鳴が聞こえてくる。
痛い、辛い、きつい、苦しい、厳しい、しんどい。
俺は、自分の身体が発する悲鳴を受け止める。痛いものは痛い。俺は、たしかに痛い。それでもまた、今日が始まる。
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