見出し画像

イタリアからバリスタという職業をなくせるか?

イタリアに行ったのち、思ったことである。

コーヒー好きにとっての聖地はどこか?
それはイタリアである。もちろん、異論は認める。

今でこそ多様性に溢れたコーヒー業界だが
それで世界的にコーヒーの国と言われれば
多分イタリアが多くの人にとって有名だろう。
そんなイタリア本場でのバル文化を
目の当たりにすることが幸運にもできた。
さて、前職の絡みもあり、ふとこんな疑問が湧いた。

「イタリアからバリスタという職業を無くすことはできるのか?」

現在、テクノロジーの発展でどんどんとバリスタという職業の専門性が高まり、またマシンの補助でどんどんとトレーニングしなくともクオリティの高いコーヒーは出せるようになっている。
この相反しているように見える内容は、バリスタに要求される基準自体が過去と比べて非常に高くなっていることを意味している。

そして、コーヒーのクオリティーとは、すべてのオーナーにとって人件費ではなく、設備投資費になる日は決して未来の話ではなく、ここ後10年以内の話であると思う。(というかすでに日本で広まってないだけで十分この考え方は今でも当てはまってると思ってる)

さて、この命題、結論から言おう、今は絶対に無理だ。

もはやこれはイタリアにとって、日本人がご飯をやめてパンだけで生きていけと言われるくらい拒否反応の強い命題だと思われる。

イタリアのバール文化は、もはや世界無形文化遺産のようなものなのだろう。

あのカウンターでオーダーのやり取りがなされ、エスプレッソを当たり前に嗜み、カウンターでの他愛のない(だろう)やり取りには、僕たちのような旅行者だけでなく、その背中を見て育つ子供もきっと憧れて、大人になったら同じ道を歩むのだろうと思えるのだ。

だからこそ、イタリアのエスプレッソマシンは進化しているように見せかけたハリボテのようにも見えるのだ。詰まるところ、保守的にどうしても見えてしまう。

様々な理由から、クラシックなマシンが合理的なように見せられているような、そんな雰囲気を感じる。

しかし、誰もこのことに口を出しはしない。

あの美しく、素晴らしい魅力に溢れまくっているバル文化を誰が破壊し再構築できるのだろうか?

人と人を繋ぐ、まさしく社交の場であるあのカウンターの柱であり、中心であるバリスタを、どうやったら無くすなどという暴言を吐けるのか。

だから、進化はしながらも根本的な解決を見送っているのが、イタリアのコーヒー業界なのかもしれない。

だが、巨大なコーヒーメーカーや企業の方針はコーヒーという液体を「人件費」ではなく「固定費」にすべく、邁進中なのである。

見えないすべての変数を数字で管理し、ボタンひとつで最高の結果を作り出し、顧客に最大限の幸福をもたらす。

これがマシン屋の全てであり、ミッションだ。

だから、彼らの最終目標は、「イタリアからバリスタという職業を消す」という途方もない喧嘩を、彼らに売ることなんじゃないかなと思った。

どんなお金持ちでも、一般市民でも手に持っている最上級がiphoneの最上位機種であるように。
あらゆる機能を統合し、最高のブランディングを持って市場を制したiphoneは、もはや富豪だろうが比較的貧乏な人だろうが持っているデバイスであり、服などと比べて値段差がほとんどない。
誰にとっても「必需品」でかつ「高級品」であるからだ。
そんなどんな世界のカフェやバリスタが必ず必要となるような
マシンを創り出し、そして受け入れられてしまう。
そんな世の中をマシン屋は目指すべきなのだろう。

ぶっちゃけそのレベルに匹敵しかねるスペックのマシンはある。
ただ、受け入れられていないだけ。そう思っている。
全自動のマシンや自動化するマシンでは、美味しいものが出てこない。
そういう先入観だけの問題であり、必要なのはそんな小手先の見た目ではなく、レシピの方であり、レシピを調整できる自由度とその再現性。たったこれだけがコーヒーのクオリティーを左右する。

ここまできた世界で、なぜイタリアだけあれだけのバル文化であり続けているのか?
コーヒーマシンは、彼らを労働という重圧から解放することはできないのだろうか?
イタリアのエスプレッソ文化は、どういう観点から変わることができるのだろうか?そして、どうすればすべてのイタリア人にバリスタのいない世界を受け入れてもらえるようになるのだろうか?

これは、コーヒーマシン業界における、永遠のテーマであり
おそらくこれからの、特に業務用コーヒーマシンメーカーは
彼らの文化を破壊し、再定義する何かを求め、開発をするべきだろう。

このNoteにイタリア人がいないことを祈りながら
今後この題材でも考えてみることにする。


いいなと思ったら応援しよう!