書評 ヒャッケンマワリ 竹田昼
百閒先生は、私にとっては馴染みの人である。あったこともないし、話したこともない。そもそも私が生まれる前にこの世の人ではなくなっていて、すでに彼岸に旅立たされている人である。
そんな人がどうして馴染みかといえば、本で読んで知っている。第一阿呆列車で知っている。まあだだよで知っている。そして、この「ヒャッケンマワリ」で知っている。
最善の内田百閒紹介本
私が百閒先生を初めて知ったのは第一阿呆列車である。それから第二、第三阿呆列車に大貧帳などの随筆が続き、由比駅などの短編を読んだ。ヒマラヤ山系こと、平山三郎氏の「実歴阿房列車先生」で知った。阿呆列車はオーディオブックになっているし、「質屋探偵ヘイガー・スタンリーの事件簿」で紹介した、ゆっくり文庫リスペクト動画シリーズもあって、様々な形で知ることができる。
どれも私にとっては面白く、楽しい明け暮れを過ごせるものなのだが、これらをどうやってつなぎ合わせ、百閒先生を紹介できるかというと、はなはだ難しい。
しかめっ面で淡々と冗談を重ねるような先生の文章に、人に対する愛情を感じることが出来なければ、それは面倒くさい爺さんの独り言になってしまう。それはあまりにもったいない。あの、自虐と矛盾と言いくるめを真面目に記す文体が面白いと思えないのは、非常に勿体ないと私は思うのである。
そんな思いを抱いていたある日、この本をKindleで見つけて読んで、私は非常に喜んだのである。私のような百閒ファンが、見事にエピソードをまとめ、百閒先生の人となりを著している、最善の本だったのである。
徐々に百閒が乗り移る
エピソード紹介漫画としては、初めの1話だけは手探りの感がある。それが徐々にこなれて来て、百閒風だなぁという終わり方もする。それは恐らく、百閒先生の文章の裏を無理に読み取ろうとせず、素直に逸話を拾い出したからではないだろうか。
百閒先生の文章に出て来る「私」は、文章上の「私」であって、実際の百閒先生ではない。と「蜻蛉玉」にあるとおり、百閒先生の「私」はそのまま本人ではない。しかしこのまんがは「文章上の私」を真に受けて描いてしまった。
とあとがきにあるが、そうしたほうが面白いのだ。なぜなら、百閒先生の文章は面白いが、それは後先がしっかりしているからこそ面白いのであり、一部分だけを切り出してしまうと味わいがなくなってしまうからである。この前後をしっかりさせているうえでの滑稽さを切り出すのには、文章では長すぎてしまうから、絵にしてまとめると面白い。
滑稽さは切り出せないが、悲しみの文章は切り出せる。そこに、内田百閒の心根が垣間見える。昭和35年、百閒71歳。百閒の愛弟子の一人、中野勝義(元全日空専務)が事故死した事を悼む「空中分解」の最後の一行は出色である。
しかしなぜ死んだ。馬鹿。
このような、内田百閒の人柄が理解できる、数々のエピソードが非常によくまとまって紹介されている、良き本である。
明治・大正・昭和はますます歴史のかなたに過ぎ去ろうとしている。それは私が江戸時代の滑稽本を読まなくなっているのと同じことである。昔の人の小説や随筆をいきなり読むのがしんどい人がほとんどだろうから、こういう人柄から興味を持って、本を読みだしてみるのも一つの方法である。多くの文豪エピソードをもとにした漫画はあるが、私は百閒先生のファンだから、まずはこの「ヒャッケンマワリ」をお勧めする。