聴覚障害者だけど、機械を使ったら会議をすべて聞き取ることができて感動した話

聴覚障害(感音性難聴)があり、補聴器を使用している。

補聴器を付けない状態だと、耳元で大きめの声で話してもらってやっと聞き取れる程度である。付けているとだいぶ聞こえるようにはなるけれど、話し相手の声がよほど大きくない限り、かなり近づかないと聞き取ることができない。いくつか前の記事で書いたが、残業がひどかった時くらいからより一層聴力が落ちてしまった。

そんな状態なので、仕事をしていて不便を感じることは多々ある。何度か聞き返しても聞き取れない時もあるし、1回聞いただけで「あ、これは何度聞き返しても無理だ」と確信することもある。そういった場合は、周りの人に通訳をしてもらったり、大変恐縮ながら筆談をお願いすることもある。「聞こえたらいいのに」と、悔しい思いやさみしい思いを山ほどしながら、なんとか、ほんとうになんとか仕事をしている。

日々の業務はありがたくお世話になりながら乗り切っているが、どうにもならずに困ることはある。

その最たるものが、「会議」である。

会議はほんとうに聞き取れないことが多く、ひどい時は誰の発言も一言も聞き取れない、ということもある。社会人になって、会議で全部を聞き取れたことは、後述する1回を除いてしまうと一度もない。

会議の回数自体はあまり多くない仕事で、あるとしても同じ職場の方々と行うことがほとんど。ただ、外部の方と行うこともたまにある。私はほんとうに聞き取れないので、会議をすることになったら必ず事前に伝えておくようにしている。

では、なぜ出席しなければならないのかと言うと、確認だったり、意見を求められたりした際に対応するためである。というと聞こえはいいが、実際はただただ「出席すること」だけを求められているように思えてしまう。もっと言うと、一応は専門職なので、同じ立場の人が他にいない。なんで?・・・という職場事情はとりあえず置いておいて、つまり多くの会議で私は、「配布資料以外の情報が手に入らない」という経験をしている。ほんとうに何もわからない無の時間を過ごすことになる。これがとても苦痛だ。いるのに、いないみたいに感じられる。私はなんのために存在しているのだろうか。今、話し手はどんな話をしているのだろうか。私だけが、聞こえない世界にいる。なんとなく周りの反応を窺いながら、なんとなくペンを持ったりするけれど何も書けず。ほんとうに資料を眺めて座っているだけだ。これ、あとで資料だけいただくと不都合があるのだろうか。「出席している」という事実のためだけの時間なのだろうか。それなら、せめて聞き取れるように配慮をしていただきたいと、思ってしまう。これは高望みなんだろうか。

まず、先月行われた会議の話をしたい。これは今までの会議の中でも特にひどかった。
外部の方との会議で、同じ職場の方と出席した。私の意見を求められた際に聞き取ることができず、同じ職場の方にその旨を伝えたのにも関わらず、小声でしか教えてくれなかった。大抵の場合、「聞こえない」と伝えると、大きな声で通訳をしてくれたり、筆談で対応してくれたりする。しかし、何度聞き返しても声の大きさも伝え方も変わらない。変えてもらえない。メモを取るジェスチャーをしても書いてもくれない。なんで?同じふうに伝えてもらっても伝わらないんですが・・・?せめて、声の大きさを変えてくれるとか、はっきり話してくれるとか、ない・・・?毎日一緒に仕事してるじゃん・・・?もしかして、質問の意味とか意図とかがわからないと思われてる?いや、でも、「聞き取れないので教えてください」って言ってるんだけど・・・?と、泣きそうになりながら2~3回そのやり取りをした。結局わからないまま。「わからないのであとで確認します」みたいなあいまいなまま流れた。悔しかった。ただ、聞き取れないだけなのに。聞き取れたら、絶対に答えられるのに。参加者全員の視線が刺さって痛い。そして続いていく会議。私は、会議の流れを止めてしまったいたたまれなさと、「ぜんぶ自分が悪いんだ」、という気持ちで胸が張り裂けそうだった。冷静に考えれば、「ぜんぶ自分が悪い」ことはないと思う。聞こえないことは出席者全員が知っていた。聞き返した人は毎日一緒に仕事をしている。でも、私は基本的になんでもかんでも「自分のせい」にする思考の癖がある。その時はほんとうにほんとうにつらくて、一度刺さった冷たい視線は私の心臓を貫いたままで、もう、その場から消えてなくなりたかった。

終わった今なら、思う。
「聞こえなかった場合の対応について予め打ち合わせをしておく(その通りにやってくれる信頼できる人についていてもらう」、「何度聞き返しても同じようにしか教えてくれない側も悪い」、「そもそもそのレベルで聞き取れないことがわかっているなら、最初から筆談や機械を使うなどの対応もできるのでは」などなど。
ただ、筆談とか、機械とか、誰かに負担を強いてしまったり、大仰になってしまったりすると、「私なんかのために、そんな、申し訳ないです」という気持ちが先立ってしまう。理屈では「そうではない」とわかっているのに、自己肯定感の低さと自信のなさから、自分を責めてしまう。このあたりも「聞こえないこと」に起因しているのかもしれない。物心ついた頃から、聞こえないこと、聞き取れないことが当たり前で生きてきたことが、私の性格に影響を及ぼしたのかもしれないし、そうでないかもしれない。実は聴覚障害者の知り合いがいないので、そのあたりを話したことがない。でも、いたとしても難しいなぁと正直思ったりもする。聞こえの程度は人によって違う。重度から軽度まで幅があるのだ。どのくらいの人と、どのくらいの話まで踏み込んでいいのか、迷ってしまう。「私よりは聞こえるのに・・・」とか思わせてしまいたくないし、思ってしまいたくない。みんな友達になれたらいいのにと思う。わかり合えたらいいのにと思う。でも、それはきっと難しい、そんなふうに考えてしまって、「どういうところに行けば聴覚障害者の方と会えるのか」を、わざわざ調べて足を運ぶ気力がない。会議などで「配慮してほしい」と思う反面、「私は聴覚障害者なんだ。健聴者はもっとずっと聞こえる世界にいるんだ」と強く実感してしまうことが怖い。このまま聴力がよくならないことはわかっている。だけど、もしも願い事がなんでも叶うなら、やっぱり私は、「聞こえるようになりたい」と願ってしまうと思う。両耳聞こえる感覚って、どんなふうなんだろう。一生わからないのに、わかりたくなってしまう。そして、願い事が叶うなんて状況は現実世界では起こり得ないことに気付いて、無駄にがっかりしてしまう。存在しない希望に縋って、存在しない願いを考えて、結局存在しないので何も変わらない。何度願っても、変わらない現実がそこにあるだけ。

脱線しました。申し訳ない。

そんなふうに時折精神的にダメージを負ったりしながら、まぁなんとか生きている。むしろ、聞こえないし、聞き取れないので、他者の優しさでここまで生きてこられたと感謝もしている。誰も何もしてくれなかったら、きっとここまで生きていない。私は他者を信頼しているのか、信頼していないのか、自分でもよくわからなくなることがある。それはまた別のnoteで書きたいと思う。

そんなわけで、「会議」というものを諦めて生きてきたのだが、驚くことがあったので聞いてほしい。
私を絶望させた例の会議の少し前に、びっくりするくらいちゃんと配慮していただけた会議があった。その会議は、いろいろなところからひとりずつ参加する形式のもので、県境は越えないものの割と遠方で開催された。

どう配慮していただけたのかというと、機械を用意していただけたのだ。

「comuoon(コミューン)」という、ユニバーサル・サウンドデザイン株式会社さんの製品です。
公式サイトの商品紹介URLはこちらです。

https://www.u-s-d.co.jp/products/


これは、発言者が小型のマイクを持って話すことで、その音声がスピーカーに飛んでくる、というもの。スピーカーを私の近くに置くことで、近くで話されているような感覚で聞くことができる上、ボリュームもかなり大きくなる。しかも、ノイズがまったく気にならず、内容も一言一句をはっきりと聞き取ることができる。あまりの聞き取りやすさに感激してしまった。最初から最後まで、全員の発言をすべて聞き取ることができた会議は、ほんとうに快適だった。発言を求められた時に、きちんと「私はこう思います」と言うことができた。これはすごいことなのである。例えば、聞こえない状態で質問だけ教えてもらっても答えにくいのだ。それまでの発言が聞き取れていないため話の流れがまったくわからないと、的外れになりそうでとても怖い。それが、今までの流れをすべて聞き取れた上で自信を持って発言できたのだ。私の心はいつになく晴れやかで、ちゃんと会議に「参加している」という気持ちになれた。もともと人の意見を聞いたり、考えたりすることは好きなほうなので、お金に余裕があれば自費で購入したいと思えた。(ほんとうに素晴らしい製品なのだが、この金額を全額自費で購入するの、二の足を踏んでしまう。)こういうちゃんとしたそういうための機械が存在しているなら、もっと広まってくれたら嬉しいなと思った。普及されることで、もっと使いやすい社会になると思う。
きっと、「聞こえない世界」を照らしてくれる製品は、私が知らないだけでまだまだあるはず。そしてもっと増えて、健聴者と同じような暮らしが遅れる日が来たらいいなと思う。

ちなみに、聴覚障害者センターに依頼をすれば要約筆記の派遣をしてもらえる。少し大げさに感じてしまって、私は利用したことはない。あと、秘匿性が高い会議は難しいと思うのよね・・・。

そう言えば、大学では授業によってはノートテイクをお願いしていた。あれはほんとうにありがたかった。

できないことを悲観しても変わらないので、「どうしたら生きやすくなるのかな」と考えながら、いろいろ探っていきたいと思う。そのひとつの方法として、「こういうことが困っている」と声を上げて、誰かひとりにでも届けば有効だと思っているので、このnoteを記している。そして、同じように困っている方の力になりたいと思う。難しいかもしれないけれど。

「字幕」についても思うところがあるので、別のnoteでいつか書きます。
あと、災害時に避難指示が聞こえなくて危ないところだった話もいつかしたいです。

ここまで目を通してくださり、ありがとうございました・・・!