"本編"制作の途中
未公開の映画の予告がとんでもないくらい衝撃的な内容で、それがバズり、期待が高まる。その作品の名はどんどん広がり、未公開にも関わらず高評価がつけられる。が、公開後、皆ガッカリ。蓋を開けてみると、その映画は中身スカスカの駄作。大袈裟に宣伝して期待させていた反動で、いっきに罵倒されるのだった。
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そんな映画があるとしたら、それは客観的に相当価値がない。
ここ数日、僕自身の弱さについて考えていたら、ピタリとハマった例えが思いついた。この #note では、「他人の目をどう捉えるか」と「自分の人格・能力を映画に例えたら」について書いた。自戒を目的に書いたけど、これを読んで少しでもあなたの価値観に刺激を与えられたら、なお嬉しい。
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内容
1. "僕"は評価し、評価される
2. "本編"制作
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1. "僕"は評価し、評価される
僕はいつも「価値観」どうのこうのと話している。その中では「自分の価値観を大切に」というのを核としているが、それは"大前提"の話。つまり、1番大切で、常に意識していなければいけない。ただ、社会ではその「"自分"の価値観」が無数に、人の数程ある。いざという時には自分の価値観に従うべきだが、それ以外の時は他人の価値観からヒントを貰い、自分の価値観を磨き上げていくことが大切だ。
周囲のことを気にしすぎるのは良くないが、実際、僕を評価するのは他人であり、僕も他人を評価する。つまり、皆、誰かを評価し、誰かに評価されている。これを忘れてはいけない。
2. "本編"制作
少し考えていると、僕の人格や能力を映画に例えた時、実はまだ"未公開"であることに気づいた。その時点で持てるだけの自信を持って「完成しました」と発表したことがない。つまり、これまでの義務教育、高専での生活の中で、僕は"予告"の世界のみに生きていた。
もし僕の人格や能力が未だ"未公開"で、今までの生き方や話したことが"予告"だったとしたら、"公開"後、周囲はどのような反応をするだろうか。
予告の完成度がどれだけ高くても、またどれだけバズっても、本編が評価をもらえなければ全く意味がない。必ず本編を見てもらう必要があり、それを評価されることでやっと対価がもらえ、僕の価値が認められる。
上にも書いたが、僕は未だに"本編の公開"を経験してない。つまり、"予告"の制作ばかりに力を入れ、それへの偽物の評価をもらって喜んでいる。改めて、ダサい。これほどダサいことはない。
こんなのよりだったら、予告がゴミみたいなクオリティだとしても、とにかく本編制作に全身全霊を注いで制作・公開し、1つでも本物の評価、対価を貰った方がマシだ。その方が確実に次に繋がる。
じゃあ、"本編制作・公開"にはどういうものが含まれるか。はっきりはわからないけど、おそらく"行動を伴った挑戦・結果"だろうと思う。全力で完成させた本編には必ずストーリーが生まれ、ハッピーエンドでも、たとえバッドエンドだとしても、誰かの胸に刺さる。熱があれば捻りなんていらない。真っ直ぐでいい。
そして僕はいま、本編制作の真っ只中。今まで作り上げてきた"予告"に見劣りしないような本編をつくっているつもり。自分で思うけど、予告作りは得意だ。だからこそ、本編公開へのハードルは異常なくらいに上がるし、多分、現状相当上がってる。
もしかしたら、予告に比べて"駄作"になるかもしれない。けれど、それでもいい。今の僕にとっては、「公開すること」に意義がある。いずれにしても本物の評価・対価をもらえるからだ。
残り少ない時間で、どれだけ中身を詰めていけるか。今まで丁寧に装飾してきた"予告"という外箱に、どれだけ質の良い"本編"という品物を詰められるか。"本編公開"後の周囲からの評価は、そこにかかっている。
できればハッピーエンドで終わりたい。胸糞映画も好きではあるけれど、ハッピーエンドの方がまあ気持ちいいし、スカッとするし。
やれるか自分。いや、やらねばならない。"根拠の無い自信"を武器に、"自信の根拠"を創造していく。そして、"予告への期待" を越える。
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