見出し画像

カモミールの花束を

「ねぇ、テッペンは、どこにあるんですか?」

よれたスウェットを身に纏う17歳の少女が、オトナたちから身を隠しながら、か細い声で問いかける。あれは入社4年目の初夏のこと。ボクが初めてロケ現場でカメラを回した日のことだった。

あの日を思い出しながら、今ボクが渋谷に向かっているのにはワケがある。渋谷駅の宮益坂口はいつも何かしらの工事を行なっており、この日も例に漏れず道に迷ってしまった。

「5分ほど遅れます、ごめんなさい。」

渋谷の街は平日の午後だというのに多種多様な人たちでごった返している。待ち人に送ったLINEには、すぐに既読がついた。

「だから、敬語はやめてくださいってば。私、もう一般の人間です。」

ボクたちはきっと、ボクたちの正確な距離感を知らない。ボクがエンターテインメントに失望したあの日から、つまりあの少女が姿を消したあの日から、気付けば5年の月日が経っていた。

ーーー・ーーー・ーーー・ーーー・ーーー・ーー

「ミスったら殺すから」

都内某所。昭和の残り香漂うバイオレンスの権化のようなディレクターに脅されながら、ボクは夢に向かい奮闘する若者のロケ取材に同行していた。

連れられたのはアパートの一室だった。ディレクターが呼び鈴を鳴らすと、奥から気怠そうな声で「はぁい」と聞こえて薄い鉄板の扉が開く。玄関には、寝癖だらけでボサボサ髪で、くたびれた部屋着姿の小柄な少女が気だるそうに立っていた。今年17歳になったばかりだという。

「うわ、この子ヤバ。」

ディレクターは意気揚々とカメラを回し出す。少女の背後には、ゴミ屋敷のように散らかるワンルームが広がっていた。

「あの…何のご用でしょうか?」

少女が、すっとぼけた表情でディレクターに尋ねる。取材が来る事は伝わっていたはずなのに、台所にはインスタントラーメンの容器が無数に放り投げられていた。

構成作家が事前に調べてくれたリサーチ資料に目を通す。去年まで高知県に暮らしていたという少女は、唯一の家族である母親に彼氏ができた時に自分の居場所が無くなったように感じ、非行に走り、地元から逃げるように東京へやってきた。上京後は喫茶店でアルバイトをして平穏に暮らしていたが、ある日インディーズアイドル事務所のプロデューサーから声をかけられ、そのまま地下アイドルグループに加入。事務所からの契約書のサインに応じた母は、契約が成立したきり、一切連絡がつかないらしい。このアパートの家賃も、一部は事務所に負担してもらいながら生活しているそうだ。

「部屋、すごい散らかってますね」
「片付けるの、めんどいんで」
「なんでカップ麺ばかり食べるんですか」
「金、無いんで」

身寄りがなく、堕落するビンボーな美少女。作家の資料に書かれた少女の生い立ちは非常にテレビ映えする内容で、ディレクターが取材に踏み切ったのも早かった。事務所は「テレビで話題にしてもらえるのは嬉しいですから」とスケジュールの調整にも積極的だった。このアイドルグループはステージでは奇妙な衣装に身を包み、下世話な歌詞の楽曲を歌う。その手段を選ばぬ注目の集め方はアイドルシーンで賛否両論の的となっていた。

「うわ〜、賞味期限、切れてるじゃないですか」

ディレクターが勝手に冷蔵庫を開けると、すっかり茶色に変色したネギが見つかった。

「貧乏なのに、食材の賞味期限を切らしてしまうんですか?」

ディレクターの鋭い指摘に、少女は慌てて冷蔵庫を閉じながら「イヤ〜」と口ごもる。玄関から様子を見守っていた事務所のプロデューサーが突然声を張って代わりに説明しだす。「こいつ、そこも含めてほんまにダラしない性格なんですわ。冷蔵庫に食材あるのにそれを調理するのすら面倒臭くなってしまうんですって。」少女はディレクターの方を見て、そうそうと頷いた。ディレクターはなるほどねと相槌を打つと「では、それをご本人のお言葉で頂けますか?」と促して少女に同じ質問を繰り返した。

ーーー・ーーー・ーーー・ーーー・ーーー・ーー

宮益坂にある目的地のカフェまで、距離はそう遠くはないはずなのに、人ごみと信号待ちでなかなか到着できない。LINEを開くと、明日初めて単身でロケに行く後輩ディレクターから「現場でどういう画を撮ったらベストなのかよく分からない」と嘆くメッセージが届いていた。その答えはあまりにもシンプルで、故に深い。待ち人からは「席、とれました」とLINEが届いている。信号が青になったので、スマホを閉じ、再びカフェへと歩を進める。

ーーー・ーーー・ーーー・ーーー・ーーー・ーー

少女の自宅を撮影した日の午後、彼女の所属するアイドルグループは高円寺のライブハウスでライブを行う予定があった。その様子を撮影する為、ディレクター・撮影クルー・出演者・関係者はロケバスで高円寺へ向かう。ボクはそのロケバスには乗らず、モノレールで羽田空港を目指した。実はこの日までボクはディレクターの指示を受け、10年前に少女の母親と離婚したという少女の父親と連絡をとっていた。少女には内緒で、高知県で暮らす父親を東京に招待して、アイドル活動を見てもらうサプライズ的な演出だった。

羽田空港のロビーに居たのは、スラッと痩せた白髪の男性だった。もうすぐ65歳になるらしい。17歳の父親にしては年齢がかけ離れている気もするが、その辺りの事情は詳しく聞いていなかった。

高円寺のライブハウスへ向かうタクシーの中、彼はボクに繰り返し感謝を伝えた。ボクなんて助手ですからと返しても、彼は「それでもずっと連絡を取ってくれて、今日もこうして迎えにきてくれたアナタに感謝しています」と訂正はしなかった。窓から覗く高速道路の景色がどんどん移り変わる。

元妻とは少女に定期的に会わせてもらう条件で離婚したこと、実際に離婚してから少女には一度も会わせてもらえなかったこと、少女は子宝を諦めかけていた40代後半に授かった大切な子どもだったこと…資料には載っていなかった彼の身の上話が溢れ出す。彼の話をもっとしっかり聞いてあげたいが、ライブハウスに到着してからの段取りの確認もしなければならない。

ゴミ屋敷に暮らすアイドルには、会えない父親がいて。そんな父親が、突然地元を飛び出した娘のアイドル一周年記念ライブにやってきて。10年ぶりに娘の姿を見た父親は(きっと)涙して。再会した瞬間に想いが溢れ出して。少女には前向きに生きる活力が舞い戻り、規律の乱れた私生活は劇的に変化する。そんな少女の衝撃ビフォーアフターに視聴者は釘付けになるだろう。

アイドルの知名度が高まり、父娘も再会を果たせ、視聴者もそこそこ感動する。それなのに、全てがディレクターの筋書き通りに行ってほしくないのはどうしてだろう。

「あちゃ〜、何だこりゃ…」

高速道路を降りてすぐタクシーの運転手がぼやく。吉祥寺駅付近で大きな交通事故が発生しており、警察が道路に交通規制をかけていた。ベッコリと前っつらのヘコんだトラックが横転しており、何かを覆い隠すように大きなブルーシートが何重にも敷かれていた。事故現場付近を待ち行く人々が何食わぬ顔で通り過ぎていく。その様子を、少女の父親はずっとタクシーの窓から見つめていた。取るに足らない、現実の詰まった東京の風景だった。

父親には少女の"芸名"も、所属するアイドルグループ名も伝えていない。事前に興味本位でネットで検索されてしまい、実際に娘に再会した時の感動を削がぬよう、ボクはディレクターからそれを止められていた。

交通事故の影響をもろに受けて、ライブ会場の到着がギリギリになった。現場に着くとすぐ「遅ぇよ」とディレクターから胸ぐらを掴まれた。ここまでは想定内。しかし次の瞬間、彼は想像もしていなかったことをボクに告げる。

「俺はクルーと楽屋に行って彼女を撮ってるから…コレ持ってろ」

ディレクターはそう言って、ボクに小型のハンディカメラを手渡した。

「オマエはジジイの顔だけ撮ってろ。何も考えなくていい。余計なカメラワークもしなくていい。」

入社して4年、これまで恐怖で体が震えることはしばしばあったけど、高揚感で体が震えたことはなかった。ADが現場で画撮りを任される機会など滅多に無い。初めて託された撮影業務にどんどん心拍数が上がるのを感じた。

客席はオールスタンディングで、主に30〜40代くらいの男性たちでひしめき合っていた。熱気に満ちた会場が、来年Zepp Tokyoでワンマンライブを行うアイドルグループの人気とその勢いを物語っていた。ボクが連れて来た白髪の65歳は、異世界に迷い込んだかのように、目に映る全てを不思議そうに見回している。

ステージ場にムービングライトが当たり、おもむろに爆音で音源が流れ出す。沸き上がる会場中、彼は両手で耳を塞いで身を縮めていた。

「こういう場所に来るのは初めてなんですよ…」

彼が、隣に付くボクを心配させまいと無理してニコリと笑った。黄緑やオレンジや紫のライトに照らされて彼の目尻のしわがくっきりと浮かび上がっていた。いつかボクの目尻にも、彼のようにきめ細かいシワが刻まれるのだろうか。会話もできないくらいの大音量でイントロが流れる中、ボクは先ほどの答えを探すように、右親指でRecボタンを押した。自分のおよそ3倍の人生を乗り越えた人生の先輩の顔を撮る。ひたすら撮り続ける。それはきっと誰にでもできる簡単な撮影だった。

舞台袖からメンバーが一人ずつ入っては、それぞれポーズを決めていく。カメラの液晶には、瞬きも忘れてステージを食い入るように見つめる少女の父親の表情が映し出されていた。

「派手な衣装を着るんですねぇ…!」

絞り出されるようなか細い声は、大音量のBGMとファンの歓声に搔き消されてカメラには入らなかった。そして、彼の顔が突然クシャッと歪んだ時、ステージ上に少女が現れたのだろうと悟った。ボクは彼にカメラを向けたまま、視線だけをステージ上に向けてみる。派手な衣装を身に纏う少女はとてもメイク映えする顔だったようで、今朝自宅で見た部屋着姿からは想像もつかない華やかな雰囲気を放っていた。やがて父親は嗚咽をたらして泣き始め、その様子を周りのファンが不思議そうに眺めていた。

東京の片隅で、こんな形で、父親は10年ぶりに娘と再会した。少女が7歳だった頃以来の再会だ。その歌も踊りもとりわけレベルが高いとはお世辞にも言えなかったけれど、父親は17歳の少女の新しい動きを見る度に驚きの表情を浮かべ、涙をこぼしては、それを拭いていた。そして数曲も過ぎると慣れてきたのか、うんうんと噛み締めるように頷いたり、そう、いいぞ、などと力強く呟いたりしていた。ボクは生まれて初めて笑いながら涙する人を見た。大きな声でお礼を叫び、少女たちは汗だくでステージから立ち去る。満面の笑顔で拍手を送る彼を見て、ボクは無意識にカメラ先端のズームリングを握る。そして、ディレクターの命令を一つ無視した。

ライブが終わると彼は過呼吸状態になり、その場で膝から崩れ落ちた。その場で介抱を試みたけど、アイドルが入れ替わるタイミングでファンたちも一斉に入れ替わる。仕方なくその場を離れることを最優先にして、ボクは彼を担ぎながら多目的トイレに入った。

「こんな所ですみませんが…」

ボクは彼を多目的トイレ内のスペースに寝かせ、看護学校に通う女性から教わった通りに過呼吸の対処を進めた。ADバッグに入りっぱなしだったコンビニのビニール袋に空気を入れて握り、穴が開いていないことを確認したら彼の口に当てる。ボクは大丈夫ですよ、きっと会えますからね、などと繰り返し、15分ほど彼の肩を撫でていた。彼が落ち着きを取り戻し、ボクも一息着いたタイミングで、スマホに着信が入る。通話ボタンを押すと、ディレクターの怒号が第一声で耳に飛び込んだ。

「てめぇどこで何やってんだよ、早く公園にジジイを連れて来い」

彼の大きな声が受話器から漏れてしまったのか、足元に寝そべる白髪の男性は必死に起き上がろうとしている。皆がハッピーになれるエンターテインメントなんてマヤカシだったのかもしれない。早く行かないと迷惑かけちゃいますからね、と冷や汗まみれで立ちあがろうとする彼に手を差し伸べて、多目的トイレを後にした。

体力を消耗しきった彼の歩幅に合わせてゆっくり歩き、ライブ会場周辺の小さな公園を目指した。想定されたシナリオでは、公園のベンチに座る少女に父親がかけより感動の再会を果たす。そのまま二人はベンチで共に昼食をとり、会えなかった10年間について語り合う。彼の帰りの飛行機時刻から逆算して、二人の会話時間は30分ほどしか用意されていなかった。

遠くに例の公園が見えてきた。そこにはベンチに座る少女と茂みの中からカメラを構える撮影クルーたちと、その側で「早くしろ」とボクに念を送りつけるディレクターがいた。

「お父様、ちょっとだけ後ろを向いていてくださいね」

ボクは急いで、先ほどまで倒れていた男性をくるりとターンさせ、まだ公園が見えないように立たせた。彼の襟元についたピンマイクが正常に動いていることを確認したら、カメラが回っていることを悟られないように公園に行くことを促す。

「疲れたと思うので、向こうの公園で休憩していて下さい。ボクはコンビニで水でも買ってきますから」
「いえいえ、お気遣いなく。私も一緒に…」
「いいんです。とにかく公園のベンチなどでお休みになっていてください」
「そうですか。どうもすみませんね…。」

ボクはその場を離れ、彼が公園に向かうのを確認してから、もう一度カメラのRecボタンを押してバレないように背後から彼を撮った。

公園に辿り着いた父親は、ベンチに座る娘を見つけると、大きな声で名前を呼びながら彼女のもとへ駆け寄っていった。彼女の本当の名前を、ボクはその時初めて知った。彼女はディレクターからその段取りをふきこまれていたのか、ふきこまれていなかったのか、「お父さん、見に来てくれるなんて」とやけに白々しく映るリアクションを見せていた。

感動の再会とは言うけれど、「感動」は物質的に目に見えるものではない。だから形にして、テレビで見せるのもハードルが高い。父親は涙ながらに娘に何かを熱弁しているようだけど、ピンマイクが拾う二人の音声はボクには届かず、受信機付きカメラを持つディレクターとカメラマンの元へのみ送信されていた。ベンチに座る二人は30cmほどの微妙な距離をとりながら歓談を続けている。ディレクターの台本には「ハグ?」と書かれていたが、父親が10年ぶりに会った年頃の娘を抱きしめるような奇行を見せることはなかった。

幸せそうに会話する父娘の姿に、ボクはこの撮影事態に大きな意味があることのように思えた。けれど何かが期待通りに進まなかったようで、ディレクターの顔は終始曇っていた。良い映像を作ることがどういうことなのか、また一つ分かって、一つ分からなくなった。

「今日の恩は一生忘れませんから」

そう何度も繰り返し、また感極まりそうになる少女の父親を急いでタクシーに乗せる。飛行機の時間までかなりギリギリだった。「羽田空港に到着したら、このタクシーチケットにかかった料金とお父さんのお名前を書いて下さいね」と説明するが、彼は遠慮してなかなか受け取らない。むしろ何か御礼をさせてほしいと言って聞かないので、「東京の満員電車は体に負担がかかると娘さんも心配してますから。娘さんを安心させてあげて下さい」と伝えた。すると彼はやっとタクシーチケットを受け取り、最後にボクの手を固く握った。65歳の皺だらけの男性は、怒濤の一日を終えて、羽田空港へと向かった。

ーーー・ーーー・ーーー・ーーー・ーーー・ーー

ロケバスに戻ると、撮影を終えたディレクターとカメラマンたちが唐揚げ弁当にありついていた。ディレクターの目の前に弁当の容器が二つ並んでいるのを見て、ボクが食べる分は既に無いことを悟った。

「何見てんだよ?」
「すみません、あ、電話が…」

ボクは電話がかかってきたフリをしながら、揚げ物の臭いが充満するロケバスを出て、車の日陰になっているガードレールに腰をかけて身を潜めた。ADバッグの中から、いつ買ったか覚えていないキャラメルを一欠取り出し、口に入れる。

「おはようございまーす!本日はお世話になりましたー!」

ライブ会場の撤収を終えた事務所のプロデューサーがロケバスに乗り込みながら、調子の良い声で番組スタッフに挨拶する声が聞こえた。今朝の取材中、ネギを腐らせた少女の「ビンボー設定」がブレてしまいそうな時、とっさのフォローで「だらしない奴なんです」と演出に切り替えてフォローした人物だった。

「敏腕なスタッフさんたちで撮影中は終始心強かったです。話題を呼ぶ放送を心待ちにしております」

そんな撮影スタッフたちへの労いの言葉を、ボクはバスの外で一人で聞いていた。

「まぁ、取れ高もいい感じなのでバズるかと」

受け応えするディレクターの声が満足げで、ボクはやっと胸を撫で下ろす。

「アイドル界のテッペンを目指して頑張らせますので、今後とも宜しくお願いします!」

そう言ってプロデューサーはバスの扉をバタンと閉めて、隣に停めてあるカスタムバイクに股がった。後部席にひっかけたヘルメットを取る時、一瞬ボクに気づいて目が合ったけれど、何も無かったように振り返りエンジンをふかして走り去って行った。

「テッペンって何?ダサすぎ…」

不意に真後ろから声が聞こえて、体が跳ね上がった。振り返ると、深々と帽子をかぶる17歳の少女が「そんな漫画みたいにビックリする人、います?」とケラケラ笑っていた。ボクは気の利いた返しをできず、いやぁ、お疲れさまでした、などと力無く言う。彼女の父親を大変な目に巻き込んでしまった後ろめたさがあるのか、彼女とうまく目を合わせることができない。視線のやり場に困って前を向くと、目の前の草っ原に、名前の知らない白い花が咲いている。

「アノヒト、公園でずっとあなたのことばかり喋っていたんですよ。」
「え?」
「本当にアシスタントさんがよくしてくれた、最高の日になったって」
「うわぁ…」
「普通、娘と再会した感動がまず先じゃないの!? って笑っちゃいました」

ロケは全く笑えない最悪のクライマックスを迎えていたようだ。公園の茂みの中でディレクターが不満げな表情を浮かべていた理由がやっと分かった。

「でも、心がやさしい人は出世しないんですって。」彼女はそう言いながら、ボクの隣に座る。「本当は父親にライブなんて見せたくなかったんです。娘があんなにセクシーな衣装を着て、あんなに激しい楽曲を歌う姿なんて、見たらきっと複雑な気持ちになるじゃないですか」彼女はしなびた唐揚げ弁当をレタスやマカロニの切れ端まで拾い上げて綺麗に完食した。

「あんなに喜ぶなんて、思わないじゃないですか」
「はい」
「父親の泣くところなんて、人生で見ることないじゃないですか」
「はい」
「上京したこと、後悔しちゃうじゃないですか」
「はい」
「さっきから、はいしか言わないじゃないですか」
「はい、あ、すみません…」

今頃彼女の父親はタクシーの中でどんな顔をしているのだろう。ボクはペットボトルの水を一口だけ飲んだ。

「全部ウソなんです」
「え?」
「あの家で見たもの」
「あ、そうですか、そうですよね」

それはいかにも、手段を選ばずテッペンを目指そうとするアイドル事務所がやりそうな入れ知恵だと思った。ボリューム満点の唐揚げ弁当を米粒一つ残さず食べきれる彼女が、冷蔵庫の中の食材を腐らせるワケがない。こんなに華奢な体つきで透き通った肌の彼女が、カップラーメンばかり食べる食生活を送っているワケがない。

「あのジジイどんだけ泣くんだよ!最高だったな〜!」
「いや〜、いい画が撮れましたねぇ!」

バスの中からディレクターとカメラマンの下世話な笑い声が聞こえた。彼女の笑顔が曇るのを見てしまったボクは、慌てて彼らの声を搔き消すように、反射的に出まかせの言葉を口にしていた。

「あの!」
「はい?」
「なんていうかその…」
「はい」
「いつか本当に…テッペンで、会いましょうね」

それは、思考を介さずに飛び出した言葉だった。目の前の彼女はどこにでもいそうな17歳の少女の顔に戻り、ポカンとこちらを見ている。自分で言っておいてなんだけど、その未来と現実があまりにかけ離れているのと、なんだか言った瞬間に寒かったかなと恥ずかしくなったのとで、少し涙が込み上げてくる。

「あのクソAD、ジジイの泣き顔ちゃんと撮れてなかったらぶっ飛ばす!」

ボクと少女がバスの真下に居ることなど知る由もないディレクターの暴走は止まらない。またうなだれてしまった少女に、ボクは早くバスから離れることを勧めた。彼女は鼻水をすすると、また目元まで帽子を深々とかぶり、ライブハウスの方へ駆けていった。ボクもその場を後にしてバスに乗り込むなり、ディレクターは二人前の弁当のゴミをこちらに手渡してくる。

「オマエなぁ、唐揚げ弁当が脂っこすぎるんだよ」
「すみません!」
「次からもっとセンス良い弁当用意しとけや」
「すみません!」

大きな声で即座にすみませんと答える競技があるとしたら、その世界でだけはテッペンを狙えたかもしれない。

帰りのロケバスの窓から、夕焼けに染まる吉祥寺が見えた。昼間タクシーで見たトラックの事故現場は、まるで何事も無かったかのように残骸の撤去が施され、また変わらぬ日常が営まれていた。何の前触れもなく、誰から気付かれることもなく、東京には様々な人がやってきて、そして居なくなる。

ーーー・ーーー・ーーー・ーーー・ーーー・ーーー

地上波で流れた彼女のVTRは、お茶の間で大きな反響を呼んだ。新聞の番組表には「衝撃のワケあり転落人生!10年前に離婚して会えなくなった娘に…父号泣!地下アイドル上京物語」と下世話に掲載されていた。父親の気持ちを思うと胸がチクリと痛くなる文章だけど、そんな下世話でキャッチーな文章に多くの視聴者が興味を持ち、ボクたちが携わった番組を見て、結果、感動してくれたりするのなら、それ以上望む事はない。そういう意味では、下世話さはいずれは持たなくてはならない武器の1つなのかもしれない。

『このシーンが胸アツすぎた…』

ツイッターでバズっていた番組の感想ツイートには、テレビのスクリーンショット画像が添付されていた。娘のステージを見ながら目をパンパンに腫らして泣くオジサンの、涙ではなく目尻のシワへズームインする、誰も見たことがない映像だった。余計なカメラワークをするなと言っただろ、と素材を見たディレクターに呼び出されて詰められたことは言うまでもない。その翌日も、少女の父親から会社に「撮影中、トイレで過呼吸になった所を助手さんに助けてもらったんです」と御礼の電話が届いたことで、ディレクターがその事実を知り、過呼吸のシーンがカメラで撮れていなかったことを詰められた。

ただ、二度と戻らない瞬間の全てが撮れていなくたってそれなりに番組は完成してしまうし、反響だって呼んでしまう。公園で少女と父親が再会を果たしたシーンは、無能なアシストのせいでクライマックスが思うように撮れなかったという話になって、OAからは全てカットされていた。

ーーー・ーーー・ーーー・ーーー・ーーー

宮益坂のカフェは20代前半の男女で満席だった。もうすぐ夏とはいえ、少し店内の冷房が効きすぎているんじゃないか、と少し心配になる自分がいた。あれから5年の年月が経った。

「おーい、こっちこっち」

遠くからボクに声をかけるのは、艶のあるウェイビーなロングヘアで目鼻立ちの整った大人の女性だった。洗練されたメイクで鮮やかに彩られ、そこらの芸能人顔負けの美貌を醸し出している。

「遅れてすみません」
「だから敬語じゃなくていいですってば」

あの放送で人気が急上昇したアイドルユニットは、その半年後、事務所が仕掛けた過剰演出や炎上商法が週刊誌にすっぱ抜かれて公となり、突然解散した。悪いニュースとして騒がれた彼女の過去に触れていいものかどうか分からず、最近どうですか、なんて当たり障りのない質問を投げた。

「やっぱり東京には、まともなオトナっていませんね〜。」
「う、耳が痛いな…」
「アナタは大丈夫でしょう〜。あ、これ見てください。」

ヘヘヘと笑う彼女は今年で21歳だ。彼女はスマホ画面をボクに見せつける。そこに映し出された彼女のインスタグラムには、可憐なドレスに身を包み、大量のシャンパンボトルに囲まれて誇らしげにこちらを見つめる彼女がいた。今や彼女は歌舞伎町で売上No.1を誇る夜の蝶となり、界隈では彼女を知らない人はいない存在となっているらしい。

「今日は、お話があってお呼びしたんです」

そう言うと、彼女はブランドショップの紙袋から小ぶりの花束を取り出した。

「約束、覚えていますか?」

彼女と交わした約束は、一体何だっただろう。

「観ましたよ。アナタが作った映画。」
「え?」
「監督って、映画作る人の中で一番エラいんでしょう?」

それは、約束と呼ぶにはほど遠い、口から飛びだした出任せだった。

「とりあえず、こんなテッペンまでは、来ましたね。」

そう言って彼女がボクに手渡した花束は、ラッピングこそ綺麗にされているものの、まるでその辺の公園で摘み取ったようにも見える、小さな白い花の花束だった。この花の名前は何と言っただろう。大きなスーツケースを引っ張る彼女は、今夜の飛行機で四国に帰るそうだ。

カフェを出ると夕方の6時で宮益坂は夕日にほんのりと赤く照らされていた。大学生と見られる若者たち雄叫びを上げている。男女が路上に座り込んで酒を飲み始めている者もいる。工事現場付近では警備員が大きな音で笛を鳴らしている。ボクはすれ違う人と肩がぶつかって、すみませんと言いながら振り返る。謝っていたのはボクだけだと気付く。変わらないね、と彼女がケラケラ笑う。

「私、気づいちゃったんですけど、」
「はい」
「大したことないですねぇ、テッペンって」
「はい」
「テッペンが沢山あるなんて、聞いてなかったですよね」
「確かに」
「これからも、テッペンで居続けたいですか?」
「うーん、テッペンって、とにかく失うんですよね」
「へへへ、わかります」

羽田空港の手荷物検査場に着くと、彼女は改まってお辞儀をして見せた。

「きっと、アナタが私の東京でした」
「はい?」

目の前に、気怠そうに扉を開いた少女はもういない。ピンと背筋を伸ばして威風堂々と立つ一人の女性がそこにいた。

「アナタにとって、私は?」
「うーん」
「何でもいいから、言ってください」
「ボクが一番最初にカメラで撮った人、の、底知れない娘さん、かな。」
「何だそれ!…まぁ"一番"が付いてるなら良いでしょう。」

彼女は満足げに振り返り、保安検査場のゲートへと吸い込まれていく。

「あ、そうだ!花の名前、カモミール!」

東京には様々な人がやってきては居なくなる。ギリギリ姿が見えなくなった彼女が去り際にボクに伝えた最後の言葉は、その花の名前だった。

スマホを見ると、画の撮り方が分からないと嘆く後輩から「HELP!!」のスタンプが追加で送信されていた。「事前に狙って撮れる程度の画なんてさ、」ボクはついちょびっと送ってしまった言葉を途中で飲み込み、「ごめん何でもない」と補足した。後輩から鬼の速さで「訳わかんないっス、教えてくださいよ」と返ってきたので、混乱させてしまったことは後でちゃんと謝ることにして、彼とのLINEを閉じた。

ボクはその場で立ち尽くしたままグーグルを起動して「カモミール 花言葉」と検索する。グーグルが表示した花言葉は、この場所で出会った一人の孤独な男性のことを思い出させた。

元気にしているだろうか。

誰かがツイッターに載せた彼の横顔は、間違いなく、初めてカメラを託されたあの時のボクにしか撮れない映像だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?