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コロナパニックで”視野の広さ”を失わないように

ことしは例年通りの大型連休、とはいかず、ほとんど出かけていない。
基本は家でギターを弾いたり、島唄の練習をしたり、本を読んだり。あとは近くの知り合いの畑に野菜を買いに行き、近くの海のあずまやで涼んでいるくらいだ。スーパーへの買い物を除けば、会って至近距離で話した人は、連休中で通算2人。まあまあ頑張っていると思う。

そんな中、こんな記事を見つけてしまった。

緊急事態宣言の中、営業を続ける店舗に対して批判が殺到しているという記事。こわすぎる。

また、ツイッターでこんな投稿も見かけた。
営業を続ける銭湯に対して、「どうして営業しているのか」と、匿名の張り紙で”問い合わせる”事案も発生しているという。

銭湯は、公衆浴場である。地域ごとにどこも銭湯の価格がおおよそ同じなのは、都道府県の条例で最高額が決められていて、ほぼその額を地域の組合がそのまま適用しているからだ。今でこそ銭湯ブームが起きているが、本来、銭湯はレジャー施設ではない。家に風呂がない人にとって、近所の銭湯が閉じてしまったらどうだろう。価格競争が起きて町の銭湯が駆逐されていっては、風呂に入りたくても入れない人が出てくる。銭湯は、みんなが体をきれいにして暮らし、公衆衛生を保つための、ある種の公共サービスなのである。

なのに。銭湯に対しても営業自粛を求める人は、「家に風呂がない人」の存在を認識できていないのだ。視野が狭くなってしまっている。

先日、私もアパートの隣人にいきなり、玄関先で「コロナをうつさないでよ」と言われた。
相手は自分の仕事を知っていたので、仕事柄、島外への出張があると思って心配していたのかと思い、「最近は1か月以上島から出ていませんよ」と返すと、「今は奄美でも出ているじゃない」と言われた。私は「今は誰がなってもおかしくないですから、お互い気をつけましょうね」といってその場を立ち去った。

怖いのはわかるのだが、悲しくなってしまった。出入りの多い仕事の特性を気にしているならまだしも、「奄美でも出ているじゃない」に関しては、条件はお互い全く同じだ。そうであるのにこう言えてしまうのは、心のどこかで、「自分が感染するとしたら絶対に誰かのせい」という感覚があるのだと思うし、「もしかしたら自分が誰かにうつしてしまうかもしれない」という危機感がない。要するに、視野が狭くなっているのである。

確かに、鹿児島県内での感染例はこれまで、多くが県外から来た人を通して感染していること、とりわけ奄美大島では埼玉県からの釣り客が感染源とみられていることから(実際、埼玉の人が感染源だったのか、埼玉の人が島で感染したのかはわからない)、外から来る人を恐れる気持ちはわかる。でも、いつまでも「誰かのせい」にしていたら社会の分断は深まるばかりだと思う。

「コロナになってはいけない」という同調圧力をかけることは、結果として感染の疑いがあるときに「たたかれるのは嫌だから隠そう」という行動を助長してしまう。そうすると陽性とわかるまでにいろんな行動をしてしまい、多くの濃厚接触者を出してしまう。

もちろん、可能な限りの外出自粛は行うべきだし、やりたいこと、やるべきことがあっても我慢するのが正しい判断だと思う。でも、なった誰かを責めるのではなく、誰がなってもおかしくないから、できるかぎりならないようにしよう。こう考えるべきだと思うのだが、これはきれいごとだろうか・・・?

海外のように、外出自粛に対して罰則を政府に求める声もあるが、
第二次世界大戦の歴史から、日本人には心の底で、政府や権力が大きな力を持つ事へのアレルギーがあると感じる。権力が個人の権利を制限することは最低限であるべきだと思う。でも、その部分の自由を、私たち自身が奪ってしまっているのではないか。
それは、本当ならばみんなが最も避けたいことであるはずなのに、無自覚にそれをしてしまっている”視野の狭まり”こそ、コロナパニックの怖さではないかと思う。

広い視野を持つこと。というか、「コロナにかかることは悪いこと」という風潮はやめること。「いつかかかってしまうかもしれないけれど、できるだけかからないようする」という意識で、一人ひとりが行動を考え直すこと。改めるべきはそれぞれの自分自身の行動で、その矛先をあまり他人に向けすぎないこと。忘れないようにしたい。

コロナより先に、自分たちの手で社会を分断してしまっては元も子もない。

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