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最初のたまごを産んだワニ(2/3) 【短編小説】




アポリは今朝も涙を流しながら目覚めた。
のがしかけた夢のイメージを、今日こそはと必死に取り押さえて、枕元のスケッチブックに描きとめる。短い円柱形の物体が一つ。描いたアポリ本人でさえも、それが何であるかはもはや見当がつかなった。



「今年の新作も鮮烈ですね」

「鮮烈であることが新作の、それ以前にファッションデザインの条件といえます」

アポリの背後には白い壁があった。だがその前に陳列された何着ものドレスの中に、その背景に溶け込んで紛れてしまう色のものは一つもなかった。

「インスピレーションはどこから?」

「では聞きますが、あなたはあなたのその髪や肌が、いつ食べた何から作られたものかを答えられますか」

会場が少しどよめく。シャッター音とフラッシュの中で、アポリは時計にちらと目をやった。

「誰に着てほしい?」
「賛否両論ですが?」
「次回作は?」
「デザインの哲学は?」

会見の時間はまだあと五分ほども残っている。この不毛な時間が終わったらマリのところへ行けるのだから、とそう自分に言い聞かせてアポリは記者たちの方へ視線を戻す。

「未来の服です」

デザインの哲学、その雑な質問に長めに答えて残りの時間を使い切ってしまおう、アポリはそう考えて少し声を張った。

「服は通常、今を写します。流行は今という時代を、ユニフォームはそれを着ているその人がそのとき属している環境や立場、抱く思想を投影しているといえます。今は白の時代です。汚染や争いに苦しんできた人類は、清潔であること、敵意がないことに安心感をおぼえたいと願うあまり、それらを象徴する白に偏愛をよせるようになりました。七難を隠すといわれる都合のいい色を好むようになりました。ぼくがデザインするのは、そんな脆弱な今を、隠し事だらけの今を乗り越えた人たちにこそ似合う服です。今ではなくこれからの時代に着られるような服です。だからぼくは白を使わないのです」

シャッター音も質疑の声も一気に鳴りをひそめた。時計を見るとちょうど会見終了の時刻だったので、アポリは記者たちの方へ小さく会釈したあと、身を翻して会場をあとにした。



「ねえ、あなたたちきょうだいには一体どんな秘密があるの?」

マリはアポリの背中に手刀を滑らせながら訊いた。

「秘密って?」

アポリは目を閉じたまま、弛緩した声で答えた。お気に入りのアロマ。なじみのエステティシャン。大仕事を一段落させることができたのも、この店の予約があとに控えていたからこそといえる。

「だって、あなたと同じラボの子たち、みんなものすごく成功しているじゃない。ほかのラボと一体何が違うの?」

アポリの腰部に、マリの合成樹脂の指が複雑な法則性で這う。アポリは人間とは神経の通り方が違う。その配列を熟知しているエステティシャンは、この居住区内にマリただ一人だけである。

「うーん、どうしようか。教えてあげようかな」

実際のところアポリには理由など分からないし、どうでもよくさえ思っていた。

「教えたらぼくは消されるかもしれない」

アポリはわざと声をひそめる。

「じゃあ、いい。教えなくていい」

「実はセキュリティを七つ抜けた場所に・・・」

「だから、いいってば!」

マリの指圧が力任せになる。アポリの鋼鉄の骨組みが音を立てて歪む。

「いててて。あんまり強くしちゃだめ」

我にかえった、というようにそこでマリの動作が急停止した。今度は思い出したように泣いて謝りはじめる。

「大丈夫だから。こんなのはラボですぐ直してもらえる。落ち着いて」

「本当にごめんなさい、ごめんなさい」

アポリは葉巻の端を切ってマリに手渡した。マリの人工感情は大抵いつもこれでニュートラルに戻る。

マリの口から煙が放たれる。目からはまだ水が排出されている。

「たぶんこういうところが違うのね。わたしには曖昧なところがない。いつも一つの感情しかないの」

アポリはマリから受け取った吸いさしを咥えて、仰向けに寝転がった。天井もシーリングファンも煙と同じ色をしている。

「しょせんは安物ね」

アポリは瞼を閉じた。やっぱり黒の方がまだましだ、とアポリは思った。

「わたしが誰かを愛してるだなんて言ったら笑うよね」

アイシテル、その言葉を聞くとアポリはなぜか悲しい気持ちになる。マリに壊されたフレーム部分が痺れるように痛む。

「朝になってぼくが目を覚ましたら、」

アポリはもう眠気に耐えられなくなっていた。

「涙のわけを、」

葉巻の先から灰の塊が落ちて、バラバラに砕け散る。

「どんな夢を見ていたかを尋ねてみてほしい」

マリの手が、アポリの痛むところを繰り返し撫でている。

意識が終わる最後の瞬間、アポリはアイシテルという声がどこか遠くから響いてくるのを聞いた気がしたが、それはどうやらマリではなく別の誰かの声のようだった。


(続く)

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