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蜃気楼・真昼の夢 【短編小説】

「今日の空が一番青い!」

窓の桟に手をかけてきみが言う。ぼくも顔を上げて窓の外を見る。通りを挟んだところに、色褪せたピンク色のアパートが二棟あって、その三階の角部屋の住人が布団を威勢よく叩いている。太陽はまだ東の空の低いところにある。

「これ以上に青くなる日が来るとしても、それはきっとわたしが死んだあとだね」

ぼくは何も言わない。もう何も言わないことにした。



ベルに会いたいな。「ベルに会いたいな」。甲州の枯露柿とやらが食べてみたい。「甲州の枯露柿とやらが食べてみたい」。小さなクルーズ船で、エーゲ海を遊覧してみたい。「小さなクルーズ船で、エーゲ海を遊覧してみたい」。

きみは一人でしゃべり続ける。

ロードス、クレタ、エフェソス、ミコノス。「ロードス、クレタ、エフェソス、ミコノス」。せめて一度でいいからこの目で見てみたかったな。「せめて一度でいいからこの目で見てみたかったな」。まだ観てない映画もいっぱいある。「まだ観てない映画もいっぱいある」。もう何年も会っていない人たち、みんなに会いたい。「もう何年も会っていない人たち、みんなに会いたい」。会って、ちゃんとお別れを言っておきたい。「会って、ちゃんとお別れを言っておきたい」。

きみが口を開く前から、ぼくにはきみの言おうとしていることが分かってしまう。次にきみは、やり残したことばっかりだなあ、と言う。

「やり残したことばっかりだなあ」

まるで本気じゃないみたいにさらっと言ってのける。

きみの容態は、二十三時五十九分に急変する。だから朝のうちから行動すれば、叶えてあげられる願望もある。たとえばきみの実家からベルを連れてくることができる。山梨まで枯露柿を買いに行って、戻ることも。きみの旧い友人に連絡を取ることだってできる。

だけどどうやったって無理だ。どうやったって、きみをエーゲ海には連れて行けないんだ。



廊下を通るより、中庭を突っ切った方がタクシー乗り場までの近道になる。西棟の角には人が立っているから、大回りして曲がらないとぶつかってしまうので気をつける。ぼくらが捕まえることになる先頭のタクシーは、クレカの読み取り機の調子が悪い。だから現金で一万一千二百円をすぐに出せるよう、あらかじめ用意しておく。財布にある貨幣の組み合わせでちょうどの額が出せる。

まずタクシーを家に寄らせ、二人分のパスポートを持ち出す。爪切りとか通帳が入っている棚の、上から二番目の引き出しにそれはある。待たせておいたタクシーに戻ったら、ここから少し時間ができる。このあたりのタイミングで、のちのためにクレカの利用限度額を上げておくことを忘れない。

空港に着いたら、全日空の空席待ちカウンターへ駆け込む。九時四十五分発のNH六六三七便になら、十分な数の欠員が出るからだ。イスタンブール行きではあるが、ほかに仕方がない。その日、アテネやロードス、サントリーニ、イラクリオン空港行きの便には、種別Bの人間にまで回ってくるほどの席が空かない。第一これらの経路には、必ず一つ以上のトランジットかトランスファーが含まれていて、最低でも二十時間以上のフライトになる。きみは空の上で力尽きてしまう。

ちょっと信じられないくらい高額な運賃を支払うことになるが、気にする意味はない。チケットと整理券を手に入れたら、保安検査を通過する。ベルトのバックルが反応してしまうので、必ず金属探知機の前で外しておく。九時二十六分、十五秒から十七秒のあいだに係員からの呼び出しがある。翼の付け根あたりの一席と、船尾側の一席を案内されるが、きみは船尾側を選んだほうがいい。エコノミークラスの機内食に不足が出て、後ろの方の席にはビジネスクラスの食事が給仕される。フルーツの盛り合わせはそちらにしかない。

ボーイング七八七・九の客室には、各座席に個人モニターが設置されている。イスタンブールまでの所要十三時間中、映画がだいたい六、七本は観られる。でも残念ながら、そこにきみの観たいタイトルのラインナップはない。だからといって、グザヴィエ・ドランの「たかが世界の終わり」は観ない方がいい。「ベイマックス」なんかも、意外ときみを悲しい気持ちにさせる。もっとただただ明るいのを選ぶといい、とは思うけどきみに任せる。

太陽と鬼ごっこをするみたいに、飛行機は西へ、西へと逃げていく。だけど太陽の方が少し足が速くて、イスタンブールに着くころにはもう空も赤くなりはじめる。ここからは荒技を使っていくことになる。

急病だ、とか言って我先にハッチから飛び出す。とにかく入国審査を早めてもらい、レンタカーのカウンターへ直行する。どの会社でも大して変わらないが、オートユニオンの窓口がわりかし空いている。急かせばすぐにルノーのメガーヌを用意してくれる。

キーを受け取ったら、あとは外海を目指して南西へ、スピード違反と信号無視でひたすら走るだけだ。現地の土地勘と運転の腕なら、ぼくはすでに世界中の誰よりも信用できるほど身につけている。道なき道を行く。警察だって振り切れる。ここまできたら敵は「時間」だけなんだ。

シリウリ郊外の田舎道から、欧州道路八十四号線へと合流する。左手に望むマルマラ海は、内海なのに対岸が見えない。日が刻一刻と暮れてゆく。水平線の赤はみるみる濃くなっていく。日没の瞬間がちょうどタイムリミットと考えていい。

きみはなにか尋ねたそうな目でこちらを見ている。聞いてさえくれたら、ぼくは嘘偽りなく全部のことを説明してあげられる。でもきみはきっと信じない。

いや、きみは信じなかった。



「わたしがいなくなったら、世界はどうなっちゃうんだろう」

青空から視線を落として、強いきみがそんな弱いことを言った。点滴の管がきみの腕の動きに合わせて少したわんだ。

「ねえ、世界はどうなると思う?」

パン、パン、パン、と乾いた音が向かいのアパートから反響してくる。気がつくとぼくの口は、話すつもりがなかったことを話してしまっていた。

ーー大丈夫だよ。きみが世界からいなくなることはもうなくなったから。馬鹿らしいハナシだって笑えばいいけど、仕方ない、本当のことを教えてあげる。おれは取引に成功したんだ。おれは、おれが二番目にいやなことを我慢するって約束することによって、一番いやなことを神さまから許してもらえることになったんだ。おれが一番いやなこと。決まってる、きみがいなくなった世界を一人で生きていくことだ。だから心配しなくていい。きみは世界からいなくならないーー。



二番目にいやなこと。おれはそれを今も我慢し続けている。

時速二百キロ近くのスピードで、テキルダー近郊にまでやってくる。外海、エーゲ海までの距離は残り百キロをやっと切る。放し飼いの家畜が群れをなして走る。太陽はもうほとんど沈みかけている。

ああ、何度やっても、何度やってみてもここが限界だ。いつもここで日が暮れてしまう。たどり着いたところで、同じエーゲ海といってもそこは、きみが憧れるような景勝地ではないのだけれど。それでも一番そこに近づけるのは、このやり方しかない。

おれは繰り返し、繰り返し、違うことも同じことも、何度も繰り返し続けた。少しずつ目的地までの距離を縮めていった。でも、あとほんの少し届かない。きみをそこにどうしても連れて行くことができない。

太陽は、時間は、決してその速度をゆるめてはくれない。道のりは物理法則を超えては短くならない。一分、一秒を、一メートル、一センチをどうにか削り出したところで、死という最後の障壁をのり超えることは絶対にできない。

空の赤みが増す。ハンドルを握る手が震える。アクセルを踏む足がこわばる。涙が、鼻水が、声がもうおさえられない。

いかないでくれ。せめて海が見えるまで、あと少し、あと少しだけ時間をくれ。だらけて、怠けて、呆けて、ぼーっとして、持て余して、ただ眠って、ただ酔って、遠回りして、逃避して、目を背けて、無思慮にこれまで無駄にしてきたすべての時間を、今この瞬間たった一回だけ一挙に取り戻させてくれ。命は必要十分な長さがあると思ってたんだ。でも本当はまったく足りなかった。太陽は否が応でも進み続けて、おれたちを必ず引き離してしまう。

助手席で静かに苦しみだしたきみは、一番最期にそれでも笑ってみせた。太陽が出番を終えて、テキルダーの街に夜が訪れた。

辺りを闇が包んで、ついになにも見えなくなった。



「椅子で寝てたら背中痛くなっちゃうよ」

肩をさすられて目を覚ます。朝日がカーテンから透けて、床に白く届いている。

窓の方へ歩いていくきみの背中が逆光でまぶしい。今朝も見た長い夢のハナシを、今日もきみはきっと信じない。



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