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一生おわることのない宿題 【短編小説】


やらなければならないことをなにか忘れているような、そんな感覚がなくなりません。

なにをしなければいけなかったんだっけ、とハカセは目を閉じて考えてみました。しかし真っ暗になったそこには、本当にたくさんの記憶や気持ちがごうごうと音を立ててはんらんしていて、ハカセはたまらずまた目を開いてしまうのでした。



赤信号の向こう、炎天下のアスファルトにはかげろうが踊っています。カーラジオが予報を伝えた夕立の気配はまだありません。

雨雲に追いつかれる前に帰れたらいいな、とトーサンは少し焦る気持ちがしていました。慣れぬ道な上、視界が悪くなっては運転もさらにおぼつかなくなりそうです。トーサンはあまり運転が得意ではないのです。

「都会の空ってずいぶん狭いんですね」

ハカセの不意のひとことに、トーサンはハンドルから少し身を乗り出して、フロントガラス越しに上空を覗き込みました。たいして狭くもない、都会というには垢抜けない市街のごくありふれた空です。ハカセの後頭部のもっと向こう、助手席の窓の外に今度は目をやると、建物と建物のあいだの一画、狭小なコインパーキングの案内看板に「空」の文字が青く点灯しています。

ああ、あれはソラじゃなくてクウ。空車のクウ。いやちょっと待って、カラ? アキ、かもしれない。とにかく少なくともソラではない、

と、そんなことはみなまで口に出しません。漢字の読みなど、ハカセは世の中のたいていの人よりよく知っているのです。

ハカセは短く、しかし大きなあくびをしました。寝ている時にシートに押しつけられていた頬が赤く跡になっています。トーサンが買ってあげた野球帽は少し大きいようです。



夏は終わりにさしかかっていました。蝉の声と暑さは相変わらずでも、太陽の角度がそれを教えているのでした。



ハカセはちょうど今みたいな、昼が夜へ、夏が秋へと向かいだそうとするときの自然の機微がなんとなく好きではありません。

(なんとなくじゃだめなんだ、ちゃんと辞書を、ぼくの辞書を作らなきゃ)

ハカセはシショーの顔を思い浮かべて、その真似をして眉根にしわを寄せました。

(ぼくがこれを好きじゃないのは、もの悲しいからだ。夕暮れや真夜中、秋や冬よりもずっと。
さっきまで勢いのあったなにかが、そのみずみずしさをどんどん失いはじめる。しかもそれはもう二度と取り戻されることがないと分かっている。
そう想像するとすごく悲しいからだ)

名前のない概念の、たどたどしい語釈ができはじめます。とはいえどんなことばがその見出しにふわしいか、ハカセはまだ決めかねていました。シャヨーカ。トーダチ。似たような悲しみを含んだものだと、ハカセは例えばそんなことばなら辞書で見たことがあります。シショーが作った、誰もが引いたことのある分厚い辞書です。本当のことはなにも書かれていない、とシショーがたばこの煙を吐きかけた辞書です。ハカセはしわをさらに深くしてうなりました。

(どうして悲しいって、おなじ朝やおなじ春はくりかえしやってこないから。たぶんそのことに気がついていないのは人間だけだ。
だって、動物たちは年に一回の誕生日なんて気にしない。一生に一度、ただ生まれた日だけがあって、あとはただまっすぐに未知の新しい時間を進んでいく。
時間はほんとうは円のように一周してつながるんじゃなくて、帯みたいに端っこと端っこがあって、一方通行なんだ。その終わりのほうの端っこがぼくを悲しくさせている気がする。
端っこそれ自体がというよりも、端っこがあることを予感させるあれやこれやが、いちいちぼくには悲しく思えるんだ)

ハカセはそこまで考えて、サ行にまだ手をつけられずにいる見出しがあることを思い出しました。何ページにもわたる語釈が必要そうにも、かえってひとことで説明がつきそうにも思える手ごわい一文字です。

ハカセはいつもみたいに、自分の遠い未来を見通してみることにしました。

高校生の自分、大学生の自分。

二人乗りで漕ぐ自転車。
マアちゃんの太い眉毛と広いおでこ。

シショーとおなじく言語学者になった自分、その気難しそうな口角と短髪。

化粧をして少し大人っぽくなっても、変わらない眉毛とおでこ。

たくさんの喧嘩と、結局おなじ数の仲直り。

父親に、おじいちゃんになった口角と短髪。
母親に、おばあちゃんになった眉毛とおでこ。

「国語の先生のくせに無口だ」、とからかって笑うおばあちゃん。

そのたびムキになって「日本語学は国語学とは違う」と訂正する、そんなところまでシショーにそっくりなおじいちゃん。

そうした未来は鮮明に予知できるのに、自分の最期の瞬間がイメージできたことはまだ一度もありません。

代わりに見たくも知りたくもない光景が思い浮かびそうになって、ハカセは慌ててそこで未来を見るのをやめにしました。



「ハカセ、暑い?」

そのこめかみにうっすらと汗が浮かんでいるのを見つけ、トーサンは冷房のコントローラーに手をかけました。「少しだけ」、ハカセは静かな鼻息とともに小さく答えました。設定温度を二度下げたところで送風の音が急に大きくなります。

「暑いとか寒いとか、言ってな」

「はい」

「腹とか減ったら言ってな」

「うん」

ハイ、ウン。早く信号が青に変わってほしい、とトーサンはそう思いました。




シショーは始め、なにも教えてくれなかったといいます。だから弟子になったんだ、といつかハカセは言いました。

「おじいちゃんによく教わって勉強なさいね」、とウッちゃんはことあるごとにそうハカセに言いました。
ハカセがシショーに初めて会ったときウッちゃんは、「おじいちゃんはね。すっごくケンイのある」、と一旦そこまで言いかけて、「たくさんの人からソンケイされるような、エラいエラあい先生なのよ」と得意げに紹介しました。

「ソンケイってわかる?」

ウッちゃんは腕の間のハカセを試すように語尾を上げました。ハカセはすでにその意味も、実のところはケンイの意味もなんとなくわかっていたので頷きました。

「おじいちゃんはなんの先生なの?」

算数の先生だったらいいな、と少し願いながらハカセは聞きました。

「国語の先生だよ」

しかしウッちゃんはそう答えてくすくすと笑いました。一体なにが可笑しいのか、そのときのハカセには分かりませんでした。

ただ、ウッちゃんがまるで子供に戻ったみたいに笑っていることがハカセには珍しくて、嬉しくて一緒になって笑ったのでした。

「ぼくも頭の中ではおしゃべりだよ」

シショーはあるときそう言って、ハカセを見晴らしの良い山の中腹まで、750ccのバイクの背に乗せて連れ出しました。そしてそこから望む連山の稜線を指でなぞりながら、「目の見えない人にあれの美しさを伝えることばがあると思うかい」、とそう尋ねました。

辺りには風の走る音と、トビの声以外に何も聞こえなくなりました。
シショーは、あとはただ日が暮れるまでそこでたばこの煙をくゆらせているのでした。
ハカセが夏休みの自由研究になにをするか思いついたのは、その日そのときのことです。

辞書を自作する。

この思いつきをハカセは自分でひどく気に入りました。




「だれか大切な人をなくしたことってありますか」

何を聞かれているのか、トーサンはすぐには理解が追いつきませんでした。けれど四、五秒もするとやがて思い至りました。ハカセはまだ夏休みの自由研究を完成させていないのです。

「あるよ。お母さんをね」

タタッ、タッ、とまばらに雨粒が車体をたたく音がしはじめます。ほとんど日差しの陰らないお天気雨です。

「ぼくはどうしてもなくしたくない人がいる」

ハカセは、シショーやウッちゃんや、友だちのうちの何人かの顔を思い浮かべながら言いました。どうしてか理由は分からないけれど、そのなかでマアちゃんの眉毛とおでこがひときわ強く、帯の端っこを予感させてやみませんでした。

ハカセは考えました。寒いくらいの車内で、こめかみに汗が滲みました。ハカセの心象にはまた未来の映像が流れだします。

テノールを歌う、背の低い男子に嫉妬すること。

横浜中華街で一人ぼっちにさせること。

花弁の散ってしまった桜並木を歩くこと。

犬を飼うのに反対すること。
猫の名前を二匹とも一人で勝手につけてしまうこと。

マアちゃんのお気に入りの、らでんが入った手鏡を壊してしまうこと、そしてそのうえ開き直ること。

かけつける病院を間違えること。

話の途中で寝てしまうこと。

いつも一言多いこと。

だけどずっと、言葉が足りないこと。

(ああ、あれもこれもごめんって、あれもこれも全部ありがとうって言わなくちゃ)

失う前に気がつけてよかった、とハカセは今にも眠ってしまいそうなまどろみの中でそう思いました。

(宿題が済んだら、夏休みが終わったら、やらなきゃいけないことを全部やりはじめるんだ)

信号はまだ赤のままです。

陽の光がところどころに照りつけたまま、雨は土砂降りに変わりました。虹と水飛沫がつくるどこか現実離れしたその光景に、ハカセとトーサンは既視感をおぼえました。

ハカセの脳裏には、濡れた大学ノートを扇風機に当てて乾かしている少年の背中が思い浮かびました。

トーサンはずっと昔、こんな雨の中を濡れながら家に帰ったことを思い出しました。

「扇風機に勉強を教えているのか」

濡れた大学ノートを乾かしていると、うしろからそんな声がしました。

無口でかたぶつなくせに、その声の主はときどきそうやって、真顔で冗談を言うのでした。


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