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#あの頃のジブン

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50代後半の僕が 30代半ばの僕に 寄り添いながら その時の想いを 語るものがたり
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やり続けてきた先に見ることができた風景

最近、自分のことをようやく客観的に見られるようになった、と実感できるようになった。それは、自分に関する出来事が起こるたびに、これは自分のせいだと思うようになったことだ。 いきなり勝手な思い込みのように思われるかもしれないが、何となくそう思うことが多くなった。簡単に言えば、人のせいにしなくなったということに過ぎない。つまり、いままで他人事のようにしてきた自分のスタンスを、できるだけ当事者の気持ちになって考えられるようになった、というわけだ。なぜ、そんな風になったかと考えると、

世界の平和を実現するための道筋

なんと1ヶ月ぶりに書きます。とにかくこうして自分の思いを綴らなくなってから、どれだけ寂しい思いをしてきたことか…。少しづつでも書き記さねばなりません。 そして、いきなり怒り爆発!たぶん、私のわがままになってしまうのでしょうが、仕事そのものをやっている状況を分からない輩に言われることほど腹の立つことはない。仕事のレベルが違えば、それはやり直して、そう、何度でもやり直す力があれば大丈夫だと思ってやってきた。しかし、姿勢だとか、考え方の相違をメールで不躾に送り付けてくるような方は

他人のことを批判できる立場にない

またまたさぼってしまった。特別、忙しいわけではなかったが、コラムのファイルを開く勇気が出てこなかった。少々緊張感が足りなかったと思う。反省。 さて、下半期に入り、仕事もプライベートも動きが出てきた。今週12日から某予備校の小論文添削が始まる。社会科学系で、しかもハイレベル国公立、私立文系の生徒が中心だとか。自然と力が入り、緊張感も湧いている。私が受験生だったころ、とてもそんなレベルをめざせる立場になく、現在、彼らに私が添削した答案が返されると思うと、身が引き締まる。 小論

人生の決断に自信を与えたもの

9月が始まった。長野県知事選では田中康夫前知事が再選され、新しい時代の到来を予感させる。子どもたちも新学期が始まり、眠たい目をこすりながら学校に向かった。 慌ただしく過ぎていく日常の中で、区切りがあるのは安心する。社会人になってしまえば“卒業”はないわけで、自分自身で区切りをつける以外ほかにない。しかし日本には四季があり、自動的に全員がその変化に心を寄せる。最近では季節感が無くなったとはいえ、寒暖は皮膚感覚で、山々の色彩は視覚で感じられることがある。 そういう変化が好きだ

過去の実績はそのときの“現在”に過ぎない

前回から10日も経っている。大して忙しかったわけでもないが、どうも書く気にならなかった。でもこれは気が向いたら書くものでではなく、ある意味での修業のわけだから、もう一度、あらためて書き始めようと思っている。 さて、世の中は“一流”といわれている企業の不正が発覚し、といってもそんな大それたものではなく、偽装や不正隠しなど、瑣末なものが紙面をにぎわしている。人間誰でも自分や会社の恥部を見られるのは嫌だ。隠したくなる気持ちもわかる。不正の発覚によって社員の生活が脅かされるのが怖か

どんなに仕事が面白くても辞めなければ意味がない

8月も半ばを超え、風が徐々にではあるが涼しくなってきた。相変わらず動きは微々たるもので、こういう時期はどれだけ前を向いていられるかにかかっている。 昨日、某予備校の小論文添削者の面接に出かける。思った通りだったが、私以外は女性。しかも主婦のような感じもした。彼女たちはたぶん、大卒で、家庭に入ったが自分の能力を持て余しており、少しでもその能力を活かすことができたら、と思って応募してきたというところか。とても優秀そうに見えた。それに対して私はどのように見えたのだろうか。もちろん

自分史上ナンバーワンを目指して

不安を不安とも感じない強い精神力。そんなものを求めていたのかもしれない。素直になろうとすると弱気の虫が出てくるし、強気に出ると、これまた不可能虫が出てくる。こうしたい、でもこういう障害がある、だからできない。この三段論法がいつも私の思考を遮る。遮られてもそれを笑い飛ばせるだけの自信があれば別だが、そういうわけでもない。でも、ほとんどの人がそういう状態であることがなんとなくわかってきた。 いまの自分がすべてではないくせに、以前の自分やこれからの自分に過度なまでの可能性を期待す

人生の課題にぶつかった時に助けてくれるモノ

最近、かみさんと教育についての議論が多い。先日も小学校の絶対評価について話しをしたし、今日は公立高校の先生が、夏休みを利用して予備校の講師から“指導”を受けたと聞いたものだから、またまた頭に来て激論になってしまった。 論点は、公教育とはどうあるべきかである。私はなぜ私立と公立の学校があるのか、というそもそも論から始めた。つまり公の立場は、科学や数学、文学、歴史、芸術などなど、あらゆる分野を広く教えながら、子どもたちの成長を図るものだということだ。それに対して私立は、創立者も

人生の意味を考える、とっておきの空白の時間

8月は商売が停滞気味だといわれている。全国一斉に夏休みの雰囲気になるからだろうか。それとも本当に不況で仕事がないのだろうか。私も仕事がひと休み状態になっている。経済的な不安というよりも、次の一手を考える時期であり、その方向性について固めていかなければならないことへの、期待と不安が入り交じった複雑な気持ちだというほうが適切かもしれない。 停滞することは、物事の変化が起こる前兆だと経験上わかっているだけに複雑だ。これから生きていく方向がどうなるのだろう、という漠然としたものでは

何かに飢えている目をした彼女の運命

運が良いとか悪いとか、あまり考えたことがないが、もしかしたら、と思わないわけではない。時間軸と場所軸を都合の良いように合わせることぐらい無意味なことはない。しかし偶然というのは不思議なもので、あれから1年以上お会いしていない人とばったり会う。しかもお互いに“もしかしたら”と思って、振り返る。これは不思議だ。というわけで、私が所属していた会社の社長秘書をしていたAさんに会った。会ったときには名前すら出てこなかったぐらい私の記憶の隅っこにしかいなかった存在だ。 彼女と出会ったの

出しゃばって要らんことをやる

久しぶりに出しゃばった。昨年はずーっとやっていたことのようだが、もう言うのも嫌になって止めていたことを、また今日やってしまった。やってしまった、というと何か失敗をした負のイメージがあるが、そうではない。まさにしてやったりなのだ。 カンタンにいえば、どんな立場にいる人が肯定することでも、自分が正しいと思えば意見をいう、ただそれだけ。アパレル会社の社長がある製造メーカーの制服のようなジャンバーを売るときに「機能性で売るんだ。ファッション性ではない!」と主張。私は即座に、機能性だ

いつまでも謙虚、いつまでもわがまま

また保険のことでかみさんと揉めた。以前もそうだった。こういうことに関心を示さない私に対して、彼女は怒った。外交員まで呼ぶことになりそうだったので、ついに怒り爆発してしまったことがあった。そういうことがあったにもかかわらず、また同じようなことを繰り返す。 確かに、これだけ身近な人たちが亡くなったりすると、将来の生活への不安はあるだろう。だから最低限の保障金額を設定した保険には加入している。今回はそうではなく、かみさんの保険に関心を示さない私自身への不満のようだ。私の保険はあく

自分の人生は自分のためだけにある

昨日、私の弟の命日だった。 あれから8年の歳月が流れたが、あまりにも急な死に茫然自失だった自分のことが、ついこの間のことのように思い出された。不覚にも墓参りをしている最中、家族の前で涙があふれた。 普段、そんな感情の起伏があるわけではないが、昨日だけはそうではなかった。熱い日差しに照らされて、決していい条件とはいえない職場で、単純な機械の操作ミス。一瞬にしてこの世を去らなければならなかった彼の人生はいったいなんだったろう、と思い出しては涙が止まらなかった。 そして、私は

生きていく中で何度もやってくる山と谷

前回のお金のことがなんとなく続いている。緊張感というか、そういう共通意識が妻とのあいだで十分ではない。何とかならないことを何とかするために、毎日、働いているわけだが、その区分けの理解がされていないような気がする。要するに足りない分を補てんするためにパートに出るのではなく、その前にお金の使い方を見直していかないと、結局、増えた分だけ同じことの繰り返しになる。その月の中で支出できないものはできない、と割り切って止めないといけないのに、それを支出して赤字になったでは納得できない。そ