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【しらなみのかげ】 北京2022年五輪開会式を観て #22

(これは二日前の2月4日に書き掛けたものに加筆・推敲を加えたものです。)

 

今日は立春であり、冬季北京オリンピックの開会式の日である。

実の所、開会式より二日前から幾つかの競技は予選が始まっている。男子フィギュアスケートの宇野昌磨選手が団体予選で自己ベストを更新したという速報を目にしたのは、つい昼頃のことであり、その時既に五輪が始まっていることに気付かされた。

 

昨年の東京オリンピック・パラリンピックは、インターネットでNHKが無料で多くの競技を配信してくれたこともあり、相当沢山の競技を観て日本代表を応援することが出来た。今回の北京オリンピック・パラリンピックでは一体どれ程の競技を観ることが出来るだろうか。予定の中を縫って、良い試合を是非共沢山見たいものである。

 

扨、五輪と言えば矢張り開会式と閉会式が気になるものである。

開会式と閉会式には、その国の世界に対してアピールしたい(或いはアピール出来る)自己イメージが如実に滲み出る。

取り分け、昨年の五輪が本邦で開催された後の、中国での開会式である。ウイグルでの甚大な人権弾圧という問題を抱え、台湾海峡の情勢は日々緊迫の度合いを強める只中に於いて、中国が一体どのような演出を行うのか。彼等が今世界に向けてアピールしたい「世界の中の中国」の自己イメージは、一体如何なるものか。この点が如何しても気になる点である。

 

演出監督は、あの世界的な映画監督であるチャン・イーモウである。中国政府が欧米に於いても非常に評価の高い彼を起用したことには、グローバルな価値観の誇示を含みつつの「配慮」が滲み出ている。

 

日本時間午後九時、2008年の夏季五輪と同様北京の「鳥の巣」に於いて、観客を3分の1に限定していよいよ開会式が始まる。

 

我が国でも時候の挨拶で多用する季節の区切り方である二十四節気によるカウントダウン、四季折々の中国の風景とスポーツの場面が折り重ねられる。それから後は、「立春」が告げられる。蒲公英の綿毛が玄妙な光によって描き出されていく。

 

巨大な立方体のスクリーンがせり上がり、柔らかく美しいプロジェクションマッピングやレーザーの光が次々と放たれ、そして物凄い量の花火が炸裂する。開始早々、莫大な予算が投じられていることが分かる演出である。パフォーマーに芸能人などの有名人は居らず、時には一般の人々が起用されているというアナウンスが入る。そして、そのLEDスクリーンには競技の映像と共に巨大な氷が映し出されたかと思えば、輝くウェアに身を包んだアイスホッケーのパフォーマー達によってそれが破れ、氷の五輪が出現する。

 

出場国の名前が書いてある雪の結晶のトーチを持つワンピースの女性(彼女達はまるでアナと雪の女王の様だった)と共に、各々の国と地域の選手団の入場が始まる。順番は、中国名の最初の漢字の画数の少ない順からである。その間、クラシック入門の如き名曲選が流れ続け、中国的な意匠の曲は最後の自国団入場以外は無い。零下3度程の極寒の中、上半身裸の民族衣装に身を包んだ米領サモア代表の旗手と、お洒落な民族衣装に身を包んだカザフスタン代表の選手団がやはり印象的である。

 

専制国家中国らしく所々に習近平国家主席の名前を上げる蔡奇大会組織委員長、そして相変わらず話が長いが五輪休戦を訴えるバッハIOC会長のスピーチがあり、その辺の中年サラリーマンの様な地味なコートを着た習近平国家主席が開会宣言を行う。その後は、通った場所を次々と五輪モットーの表示へと変えていくスケーター達と共に、東京五輪でも使われた「イマジン」が流れる。世界での覇権を明らかに目している専制国家中国での大会に於いて、「イマジン」が流れる光景は中々グロテスクなものである。オリンピック旗の入場と同時に、揃いの虎の衣装を着た子供達によるオリンピック賛歌斉唱、宣誓、中国のオリンピアン達による聖火リレーである。参加国の一つ一つの名前が書いた雪の結晶が織り成す大きな雪の結晶のトーチがそのまま聖火台となり、火が灯される。リレーのアンカーは漢族の男性アスリートと、ウイグル族の女性アスリートであった。新疆ウイグルで起こっていることを鑑みるに、これはその弾圧を隠蔽し国家の統一を強調するかの様な人選であり、物議を醸す所であろう。

 

 

どちらかと言えば、華麗ながらも静かな演出であった様に思う。

使われているモチーフは、殆どが蒲公英や氷や雪といった自然物であり、中国的な衣装は殆ど全面化して使われることはなかった。2008年の北京五輪の様なナショナリスティックな演出は、今回全く見られなかった。雪と氷の演出にせよ、兎に角、どの意匠も総じて非常にユニバーサルな性格を持っていたのである。冷戦の如き世界情勢の下で、ナショナリズムを打ち出すことによる国際世論への刺激を警戒した為に、そうした「当たり障り」の無い意匠を選んだのかも知れない。

 

又、国産コンテンツ目白押しで「内向き」になってしまった程だった東京五輪の開会式に比した時、そうした現代文化のコンテンツが全く登場しなかったことも注目されて然るべきだろう。現代中国が世界に誇れる最大のコンテンツと言えば、「Fortnite」などのゲームであろうものの、これは今や、中国共産党政府による厳しい弾圧の対象となっている。ここに、ハードパワーでは大国であるがソフトパワーの強さに今一つ欠ける現代中国の状況が如実に現れていると見ることも可能であろう。

 

しかし、二十四節気のカウントダウンからスタートした如く、そのことは逆にグローバリズム下での「世界帝国」としての中国、すなわち一帯一路の指導国としての中国をアピールするものであったのかも知れない。最早、中国固有の要素を打ち出す必要が無い文字通りの大国になったという意識の現れとでも言うべきであろうか。何処かでそうした意図を感じた。そう考えた時、上記の如き演出の傾向には、プラットフォームを作る国としての中国を、或る意味で前面に押し出す意図があったのかも知れない。

 

 

然し乍らそう考えた時、中国の産み出すプラットフォームとは何か、ということが改めて喫緊の問題になるであろう。「世界帝国」には、経済力と軍事力の他に、何かユニバーサルなプラットフォームとなるものが必ずや必要である。今の所、LEDライトとプロジェクションマッピングを派手に駆使したこの開会式を見る限り、彼等自身は技術力であると考えている様にも思える。年々メダルを増やし続けるオリンピックの選手育成も、その一環であろう。

しかし果たしてこれらの有無を言わせぬ力だけで世界を制覇出来るものだろうか。アメリカやソヴィエト連邦は、そうした力を有しつつ、別方向でもプラットフォームを作ったには作った。勿論、コカコーラやマクドナルド、ケンタッキーなどが物語る如く、激しい競争の末に圧勝したのは圧倒的に自由と民主主義、そして資本主義の国アメリカであった。そうした方向に驀進する現代中国を見た時、この昔ながらの問いが改めて湧き上がってくるのである。

 

ともあれ、そうした情勢は一旦傍に置いて兎に角日本選手団を応援し、競技を楽しみたいと思う。中国よりも沢山のメダルが獲得出来れば、正に僥倖であろう。

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