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【しらなみのかげ】思想としての保守主義とは何か #28


よく言われる話がある。
それは、保守主義には固有の理想や理念がない、ということである。
 
 
例えば、その対極である共産主義には、私有財産を廃止し、生産手段を社会化することで「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」社会を実現するという、これ以上無い程の明確な理想がある。それよりは広義に用いられる概念である社会主義も又、私有財産の廃止乃至は制限により多かれ少なかれ生産手段の社会的共有を実現するという理念に立脚している。それらと少し異なる思想であるアナキズムにも、国家や宗教の政治的権威と統治を否定し、人間の自由に最高の価値を置く、という明瞭なる理念が存在する。
 
 
将又、自由主義は当然、市民的・政治的・経済的な意味に於いて個人の自由に最高の価値を置くという理念の元に成り立っている。民主主義は、正確には思想としての「主義」というよりも「民主制」という政体のことを意味しているので扱いが難しい所があるが、それを思想として捉えるのであれば、人民が自ら権力を握り自ら行使するという理念のことを意味するだろう。これとは異なる意味で考えるのが難しいのが、目の敵の如く扱われ、今や罵倒語としての流通の方が増えてしまったファシズムであるが、国家乃至は民族に最高の価値を置くものであると一先ずは言えるであろう。
 
 
こうした多かれ少なかれ「革命的」な諸々のイデオロギーと対比した時、理性よりは経験を、理論よりは実践を、性急な改革に対して現に有効な制度と秩序を擁護することを旨とする保守主義という思想には、此の様に固有の理想乃至は理念が見当たらない様に思える。行為として「保守」ということそのものを中核にするならば、それは単なるオポチュニズムやシニシズムといった現状肯定になり兼ねない為、思想としては殆ど中身の無いものになってしまう。
 
 
しかし、少なくとも西洋思想としての保守主義に限って言えば、それは断じて異なる。保守主義の教典たる『フランス革命についての省察』を書いた十八世紀イギリスの思想家エドマンド・バークに流れているのは、古典古代的人文主義に基づく共和主義の精神である、というのである。
 
 
そう唱えるのは、佐藤一進『保守のアポリア:共和主義の精神とその変奏』(NTT出版、2014年)である。今日、序章と第1章だけ読んで置いていた此の書を、一気に読み終えた。著者は神戸学院大学准教授のバーク研究者であり、社会思想家として著名な佐伯啓思先生の弟子である。
 
 
一言で言って、これは大変な名著であった。著者が下敷きとするのは、イギリスの歴史家であり政治学者であるジョン・G・A・ポーコック。彼は、大著『マキャヴェッリアン・モーメント』(1975年)にて、古典古代のギリシャ=ローマからイタリア・ルネサンスを経て十七世紀イギリスに伝播し、十八世紀イギリスに於いては政治経済学の成立に関わり、そしてアメリカ独立革命の精神に結び付く共和主義の精神を描き出している。佐藤氏の労作は、此の様なポーコックの視座に併せて、同じく「公的領域」を思索したアレントの政治思想を支柱として共和主義の精神を再考し、それを保守主義の根底に見出すものである。
 
 
共和主義と言えば、バークが擁護する「記憶を超えた国制」である立憲君主制と通例対極にある様に思われる。しかしながら、ポーコックとアレントを踏まえて論じる佐藤氏によれば共和主義とは、最高善に基づく市民の善き生(これを「自律」とする)を旨とする世俗的共同体(「共和国」)が「徳」によって「運命」や「腐敗」を克服し、政治共同体を時間的に自律・存続させようとする固有の理念である。此の様な「統治の知」は立憲君主制と矛盾するものではなく、寧ろ法の支配を重んずる混合政体的な特質を下支えするものであるというのである。
 
 
本書の叙述は以下の様に進む。マキャヴェッリの古典的共和主義を英国に移入して自由土地所有を基礎とする英国流に展開させたジェイムズ・ハリントンの『オシアナ共和国』。市民の徳という共和主義的な契機を排除したが真の意味で名誉は重んじたホッブズの『リヴァイアサン』。重商主義時代に失われた政治的で軍事的な市民の徳の代わりに社交による作法の洗練とそれに醸成された共通感覚による輿論を重んじたアダム・スミス、デイヴィッド・ヒューム等のスコットランド啓蒙(保守的啓蒙)。そして、それを逆転させて作法が保証されてこそ商業発展は可能になると説き、作法の源泉を貨幣ではなく大土地所有(教会領と貴族領)に見出したバーク。
 
 
ここでその重厚な議論を逐一再現することは出来ないが、彼等が価値を見出していたのは、政治的共同体を統治する徳と知恵を持つ「本性上の貴族」であったことは何度強調しても足らない。そして、ここでの保守主義とは、「法の支配」を何よりも重んじつつも、「作法は法よりも重要であり、法は作法の内に基礎を持つ」というバークの根本洞察に要約されるものであるだろう。そこには、何であれ政治的な「熱狂」を何よりも警戒するという、清教徒革命の擾乱から得られた教訓が時代を超えて受け継がれている。
 
 
煎じ詰めて言えば、バークに結実する保守主義の精神とは、作法によって時間を超えて保持される古典古代的な自律の精神であり、その精神は、政治共同体を統治して地位と名誉を得る「本性上の貴族」に於いて体現されるものであった。此の様に考える時、思想としての保守主義が言葉の文字通りの意味に於ける卓越主義であるということがよく理解出来る。そして、バークがナショナリズムを産み出したフランス革命を激しく論難したことからも判る如く、それがナショナリズムというものと全く異なるどころか、本性的に相容れないものであるのかも知れないということが頭に過る。実際、二十世紀になって現れた米国保守主義思想の泰斗ラッセル・カークはそう考えていた様である。思想としてのナショナリズムの方は、橋川文三が幕末維新の日本ナショナリズムについて記した『ナショナリズム』で書いていた如く、恐らくはルソーの一般意志をその核心とするものだろう。或いは、ナポレオンの侵攻で覚醒したドイツでそう言われた如く、固有の言語と歴史を共有する民族の共同体をその核心とするものだろう。両者の関係を究明することは実に微妙な問題であるが、何れにせよ一種の「熱狂」を核とする点に於いて、佐藤氏が論じる保守主義=共和主義とは相剋するものである様に思われる。此処には非常に困難な問題がある。佐藤氏は、バークの保守主義こそ、紆余曲折を経ながら古典古代より近代へと継承され、砂粒の様な個人が浮遊する根無し草的に浮遊し始める近代に於いて(通説からすれば逆説的に)近代性の最たる証であると看做しているが、デモクラシーとポピュリズム、そして資本主義というもう一つ別の(というよりはこちらが寧ろ通説的な意味での近代性に他ならない訳だが)近代性との関係をどう考えるべきなのだろうか。
 
 
際限無く進んでいたグローバリズムがコロナ禍と宇露戦争によって途切れ、一気にネイションとブロック経済の世界へと突入する現今の情勢に於いても、此の問いは重く突き刺さっている様に思われる。
 
 
そして、此の様な視座から見た時、我が国に於ける保守主義の精神は一体どう考えるべきなのだろうか。保守的な人間であることを自認する私にとって、この問いは大きな課題である。この前扱った河上徹太郎の「日本においてはアウトサイダーこそがインサイダーである」という言葉と、福田恆存の「保守とは横丁の蕎麦屋を守ること」という言葉を思い出す。
 

(この文章はここで終わりですが、皆様からの投げ銭を心よりお待ち申し上げております。)

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