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【しらなみのかげ】 神を救い出す南仏の宗教哲学者 #11

昨日の分を今日のお昼に出すことにする。

昨日はお昼ずっと、哲学の勉強に費やし、夜は飲みながら別の作業をやっていた。その後YouTubeで今日仕事に必要な映像を幾つか次々と観て、作業が終わりに差し掛かったのでそのままジャルジャルや中川家のチャンネルなどをテレビに映して観ていたら、そのまま書くのを忘れて又もやホットカーペットの上で就寝してしまった。

どうでも良いことだが、昨晩は地元福岡を中心に展開する地域宅配ピザチェーンのピザクックが夕食で、朝飯はその残りであった。ここのピザが、圧倒的に具も多いし、宅配ピザの中では一番美味いと今でも思う。こよなく愛する一九ラーメン老司本店と、実家が昔経営していた店の店長が開いているビストロと、これが食べられたから今回の帰省も充実していたと言えよう。

 

今は山陽新幹線の中である。此の文章を上げる頃にはもう関西に着いているだろう。今日から京都に戻るのである。

 

さて、本稿では、昨日読み進めていた本に纏わる話でも書いておきたい。

それはフランスの哲学者モーリス・ブロンデル(Maurice Blondel, 1861-1949)の主著の一つであり、博士論文の『行為(1893年) 生の批判と実践の学の試み』(増永洋三訳、創文社、1990年)である。書名の中に1893年と年号まで付いているのは、彼自身が大分後年に『思惟』『存在と諸存在者』と並んで三部作をなす同名の著作を書く(とは言え、或る時失明してしまった彼は口述筆記で著述するのであるが)という紛らわしいことをしているからである。


モーリス・ブロンデル−凡そ哲学研究者でもその名を知る人の方が少ないのではないだろうか。フッサールやベルクソンの同時代人であり、南仏はエクス=アン=プロヴァンスで長く教鞭を執ったこの哲学者は、今や殆ど忘れられている。彼は、ネオプラトニズムやライプニッツ哲学のような古典哲学と当時新進気鋭の潮流であったプラグマティズムを融合させ、根底からカトリック信仰の色調を強く放つ宗教哲学を樹立した。忘れられている要因の一つは、些か護教論的にも映るそのカトリックの芳香の所以であろう。

しかし、20世紀初頭にカトリック教会内部で巻き起こった「近代主義」を巡る殆ど抗争めいた論争や、20年代から30年代に盛んであった「キリスト教哲学」論争にも深く関与するなど、彼は或る時は時代の寵児であった。それは、19世紀以降哲学と宗教が緊張関係を持つに至って、離散しつつも絡み合う中、社会の急速な変化と共にその緊張がいよいよ激化した前世紀西欧のことであった。

 

近代化とは、よく言われる如く単に宗教が退潮するという意味に於いて「世俗化」なのではない。それは、「宗教」という領域とそれに属さない「世俗」という領域の根源的分割が全面的に展開することにより、宇宙と人間の全ての領域を一種の自明性を以て覆い尽くす「聖なる天蓋」が崩壊する、という意味における「世俗化」なのだ。つまり近代とは、元来は宗教の中に埋め込まれていた諸々の物事がそれぞれバラバラになりつつ、宗教の持っていた根源的なる何かを取り返そうと努める時代である。

この取り返しの営みは、その分割の只中にある宗教のみならず、所謂「世俗」の側からも実に多種多様な仕方で行われた。ドイツ観念論が、完全に非宗教的な哲学であると言えるスピノザ哲学の衝撃から始まり、人間の認識の可能性の限界付けとそれによる新たな形而上学の予告を行ったカントの超越論哲学を受容することで、哲学に於ける宗教を追求したのは偶然ではなく、その巨大な端緒であっただろう。

その最たる典型が藝術と哲学であるが、恐らくは、「イデオロギー」と呼ばれるものも又、少なからずそうした性格を有しているだろう。

あらゆるものが根底から突き動かされて変化すると同時に、その不動の礎を失っていく近代という時代−その時宗教は、ただ宗教の言葉を話しているだけでは最早通用せず、哲学も又、その根源に重大なる危機を胚胎することになった。宗教は、長い時間を掛けて積み重ねられてきた文字の光輝を失っていく中で、原理主義として益々「文字通り」のものとなっていくのか、或いは「文字通り」ではない道を歩むかを選ばねばならなかった。

そんな中でブロンデルは、カトリック哲学の立場から、人間の「行為」という具体的モーメントに着目し、何とか哲学の側に踏み止まりつつ両者の統合を図った人物であると言えるだろう。

この『行為』という本は、邦語訳で増永氏の解説を入れて600頁を超えるという恐ろしく大部な書物である。

まだ最後まで読み終えてはいないが、その膨大な内容を貫く原理を一言で言えば、次のようなものになるだろう。有限者たる人間が具体的行為とそれに対する反省を通じて、幾重もの段階を経つつ更に行為の根底を突き詰めることによって、自らの内奥から自らを突き動かす「唯一の必然的なもの」即ち神への憧憬を自覚し、信仰へと至る、ということ。換言すれば、行為の内在的原理を徹底する中で、その裏面にあるような超越たる神を再発見すること。

 

これが、近代という分裂と再集合の時代に於ける、ブロンデルによる「根源的なるもの」の救い出し方であったのだ−しかも、カトリックという宗教には止まり続ける、という仕方に於ける救い出し方であった。私がブロンデルに関心を抱いたのも、まさに彼の哲学的企図の内にこうした理路を予感したからであった。

 

殆ど書の内容について語らず、その周辺について思い付いたことを書き連ねてしまったが、大凡ここに書いたことは確かに、「近代」という巨大な歴史の運動に対する私の根本的な関心の一端である。

ヨーロッパに始まって全世界に拡がって最後はアメリカニズムに結実した近代が、グローバル化の完成とアメリカの分裂と衰退と共にもう直ぐ終わり、次の巨大な歴史のスパンを迎えそうである。私は此の時代に生きる者として、近代と宗教の問題こそ、今こそ考えておかねばならないことだと思う。


つい難しい話をしてしまった。

(此の文章はここで終わりですが、皆様からの投げ銭をお待ち申し上げております。)

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