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水俣

東京から離れた場所の水俣で水銀汚染は起きた。
そしていま、

https://digital.asahi.com/articles/DA3S15064052.html

「19年に世界で亡くなった人の6人に1人に当たる900万人以上は環境汚染が原因だった。その約9割は低・中所得国の住民や先進国の貧困層という。グローバル経済の中で化学工業など危険を伴う産業が先進国から途上国に「外注」される実態がある。」

「新自由主義への流れの中で、「日本の公害・環境行政は退潮した」と宮本憲一・大阪市立大名誉教授(環境経済学)は指摘する。
 公害研究の先駆者である宮本さんは「水俣病は社会システムが起こす公害の典型例だった」と話す。単に企業の失策ではなく、成長のために企業を擁護し、規制を怠る政治や行政の問題が背景にあったという。」

なぜこうなるか?

近代になり、人間も自然も市場経済で取引されるようになった。
ポランニの言うように、人間は労働力商品となり、自然は土地取引の対象となった。

人間と自然とが、それらを買ったものが好きに処分できる商品となったといってもいいだろう。

労働力商品となった人間は、商品として魅力がなければ、生活していけないと強迫観念を持った。
取引可能な土地となった自然は、開発し尽くして金銭価値を高め続けることを強要された

森林や草原や川や海で繰り広げられてきた、人間と自然との調和を保ち続けた労働は、自然を破壊し続ける、そして仕方なく行う「賃労働」と化けてしまった。

誰もしたくないのにしてしまう、そう、人間も自然も、自分たち自身ではなく、金銭→商品→利潤と変化していく資本に囚われて生きるようになってしまったのだ。

いや、資本だけではない。
国家の統治のあり方も変わる

どうやって自分たちの領土を安定させ、人民の反乱を抑えるか?それが領主にとっての統治問題である。
近世までの大地主で構成された封建貴族たちによる領地を通じた統治形態が変わる。
土地取引市場経済の中では、土地を領地とすることで直接、統治するのが難しくなってくる。土地は取引を通じて多くの地主に分散されてしまう。
そこで、富国強兵、尊皇攘夷が、国の統治の根幹となる。資本の利潤の上昇にさらに人々が巻き込まれて資本の動きに人々が囚われることで統治される。また、海外からの脅威が強調され、尊王攘夷・富国強兵で、国民は団結し統治される。
税制も固定資産税(年貢)と消費税(商品税)中心の近世から、近代に入り資本利益に応じる所得税が導入され中心となる。

国と資本は結託し、社会的生産手段、つまり工場や港湾、道路の整備、法的制度が優先する。社会的消費手段、つまり福祉や人権や環境のための設備や規制は後回しにされていく…

本来の民主制は、地方自治での直接参加と対話と熟議であるが、それが広がるのは旧領主層には困る。よって広がる前に、貴族制の制度である選挙を通じた代議制を導入し、これが民主制度だと喧伝する。結果、「選ばれた人」により公共政策は決まり、人々の公共への関心は薄れる。
下手に公共精神で声を上げたら、その市民は反抗的だとして、労働力商品としての価値が下がると思わされる。何か学生運動や住民運動などしたら就職に差し支えるのでは、と考えてしまう若者がいるとしたらその典型である。労働そのものを行なっているとしたら住民運動をするのが当たり前なのだ。労働を成り立たせている人間の生活と自然が破壊されているときには。しかし、「労働力」のみを分離させて商品として就職を探すとき、その全人性は失われてしまう。

資本と国家の結託である。

共同体もそれにつられて変転していく。互酬制で結ばれていた共同体は解体されていって、「国民という想像の共同体の元での共助をしろ」という強制が始まる。赤心奉国の世である。

さて、どうするか?

目指すべきなのは、「森林や草原や川や海で繰り広げられてきた、人間と自然との調和」であり、「地方自治での直接参加と対話と熟議」であり、それらを通じて「社会的消費手段、つまり福祉や人権や環境のための設備や規制」を整えることである。

経済のことを考えていない空物語であろうか?いや、深刻な自然環境の危機の中、同時に世界資本の利潤率が下がってしまい国債を通した巨額の財政出動と金融緩和でしか生き残れていない現在の資本制度の危機のなか、このようなことを目指すことの方が現実的なのである。

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