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粋を忘れた世界で、僕らは水から茹でられ続ける

 実家で一緒に住んでいた祖父はいわゆる「時代劇」が好きだった。水戸黄門や大河ドラマを欠かさず見ていた。特にお盆や年末などに放送されていた時代劇スペシャルみたいなものは、欠かさず見ていたのを覚えている。当時、テレビは我が家に一台しかなかった。祖父は我が家で一番偉い人だったので、チャンネル争いというものすら出来なくて、自分は友人達の会話に出てくるテレビ番組のことが良く分からず、寂しい思いをしたのを覚えている。

 ただ、時代劇が嫌いだったかというと、そうでもない。一緒に見ていて面白かったのもあった。特に「独眼竜政宗」と「武蔵坊弁慶」は記憶に残っている。毎週かかさず見ていた。「独眼竜政宗」はとにかく面白くて、友人達との間でも話題に上がるほどに盛り上がった。月曜日は「独眼竜政宗」と「ジャンプ」が話題だった——「キン肉マン」と「伊達政宗」が同時に話題になる、そういう時代だった。

 祖父と時代劇を見ていて面白いなと思ったのは「粋」という概念だった。特に町奉行や家老といった偉い人々が、本当にギリギリまで追い詰められた末に起こしてしまった犯罪者に対して「粋な計らい」をするというストーリーが好きだった。その性格は変わらなくて、年齢が進んで小説や漫画を読み漁るようになってからも「粋な計らい」をする設定が好きだった。ブラック・ジャックとか、ギャラリーフェイクの藤田みたいな人物だ。周りからは飄々と生きているように見られていて、でも芯がしっかりあって、困っている人には粋な計らいで手を差し伸べる、お礼も聞かずに去って行く、そういう格好いい大人に憧れたのだ。

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 でも自分が実際に大人になってたどり着いた世界は「粋」とはかけ離れていた。誰もが生きていくのに精一杯で、他人のことを思うゆとりなんてない。個人主義と自己責任論が行き渡り、何がおきても個人の責任と世間はいう。同調圧力を嫌悪して自由を謳うのに、政府の対応が悪いと叫び、でも選挙には関心がない。少なくとも、自分が成人してから、この日本が豊かになる方向に進んだとは思えない。あまり大学教員がこういうのを書くのもアレだとは思うのだが、我々はじわりじわりと悪くなっていく状況に慣らされ続けているように感じる。水から茹でられるカエルのように。

 ちょっと温度を高くしては、一端火を止めて、そしてまた少しだけ温度を上げる。そうやって徐々に徐々に少しづつ少しづつ、精神的にも経済的にも貧乏になる方向に進むことに慣らされている。こういうことを書いてしまうと年齢バレしてしまうが、僕は高度経済成長期も、バブルも知らない。アゲアゲの時代を一切しらない。僕が子供の頃に「独眼竜政宗」と「ジャンプ」に夢中だった頃は豊かな時代だったのだろう。でも働き始めてから経験した好景気は「いざなみ景気」だが、景気の良さとやらを感じたことは一切ない。少なくとも、僕の同世代で「日本が良くなっていっている」と思うのは、いたとしても極めて少数派だろう。少しづつ、少しづつ、悪化する世界に慣らされている。

 でも僕らはカエルのように馬鹿ではないので、ある一定の段階で温度が高くなっていることに気づいて我慢の限界を叫ぶ人が現れる。

 もしかしたら無敵の人というのは、そうやって誕生しているのかもしれないと時々思う。茹でられ続けるためには、ある程度の才能というか、忍耐力というか、特典というか、なにか生まれ持って与えられたものか、後天的に与えられたものか、もしくは勝ち取ったものか、茹でられ続けるために温度感覚を麻痺させるための麻薬のような「何か」が分け与えられなければいけない。でも今の日本では、否応なしにグローバリズムに巻き込まれて、一国の中だけでコントロールすることなんて出来なくなってしまった。予定が狂ったのかもしれない。こんなはずじゃなかったのかもしれない。でも、もう、その何かを配分する余力はない、僅かな何かは取り合いだ。

 その結果として自己責任論が蔓延してしまう。でも、何かを手にすることが出来なかった側から見れば、悪いのは自分ではない誰かだ。でも自己責任論が蔓延する中では「他責」は受け入れられない。世の中に絶望するが、その絶望を語るところは個人主義の世の中ではない。その現代の捌け口というかセーフティーネットの役割がネットであったはずだ。一時はネットにもなんらかの効果があったかもしれない。でも、やがてSNSにおける「いいね」の発明は、平等だったはずのネットの世界に分かり易いヒエラルキーを生み出した。

 僕はずっとSNSで見かけるエコーチャンバー現象をぞっとするものであって、嫌悪すべきものとして観察してきた。それでも井戸に入って怪物になれるカエル、もしくは怪物となるカエルの横で「いいね」の大合唱をするエコーチャンバーの壁になれるのは、まだマシかも知れないと、この頃は思うようになった。それは「いいね」を貰うための怪物となるカエルばかり気にしてたからだ。でも世の中には「いいね」を押したり反射したりするための井戸の壁を見つけられない人達、その井戸を見つけたとしても壁になろうと入り込めない人達というのが存在するということに想像力が及ばなかった。実社会だけでなく、ネットの世界でさえも、絶望を味わうのだ。

 そのような絶望がリミットを超えて生み出す力は、茹でられ続けているカエルに向けられる。分け与えられるべき何かをもっているからだ。もしくは権力に向けられる。分け与えるべきだった何かをくれなかったからだ。

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 この先の未来に、明るい何かを想像することが出来ない。このような絶望が生み出す悲劇が繰り返され、頻度が上がっていく未来しか想像がつかない。ここ数日に起きた事件を見て、そんなことを考えていた。そもそも僕らは「良くなっていく」実体験がないのだ。自分の周りで粋な出来事が起こるとも、自分が粋な振る舞いが出来るとも思えない。本来であれば、そういうより良い未来となる世界戦を作るべく絶え間ない努力を払い、後進を育てるための身分に僕はいるはずなのに。茹でられ続けて力がない。いや、もともと、そんなものは持っていなかったのかもしれない。何者にもなれない自分を自覚したからかもしれない。ブラックジャックにも、ギャラリーフェイクの藤田にもなれない。粋な計らいも出来ない。粋な人間にもなれない。良くなる実体験を知らないのに「いずれ良い時代がくる」なんてのも言えない。そうやって言い訳をたくさん並べて茹でられ続けることを甘受するようになっていく。僕はそんなカエルになってしまった。情けない。

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