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薮にいたヘビを見つけて考えたこと

 やってしまった。とあるメール会議で「ん?」と感じたことがあり、確認のメールを送ったのが運の尽き、薮で寝ていた面倒なヘビを起こしてしまった。調べたら「今までOKされてきた」から誰も疑問に思わなかったようである。誰も気づかなかった問題を叩き起こしてしまった面倒な人になってしまった。

 面倒な人になってしまったからには、責任をとって後始末をしなければいけないのが日本社会の文化である。致し方ない。掘った穴は、穴を掘った本人が埋めなくてはならない。それが日本というものだ。

 私は誰かを責めたりとか、気づかないまま進んでしまった物事を今更になって戻せとかひっくり返せとか、そういうのは嫌いである。過去のことは過去のことで、誰も気づかなかったのだからしょうがないじゃないか。後ろ向きではなく、前向きな議論をしたいのだ。「今後をどうするか?」を議論したいのだ。実情とルールが合わないのであればルールを変えるべきだし、ルールを変えるのが無理な事情があるならば、実情をルールに合わせるべきだ。もしくは、必要なさそうなルールなら撤廃してしまえばいい。

 なのに、である。どうしても過去の拘りを棄てられない方というのは、どこにでも居る。その人は薮にヘビが潜んでいたことに全く気づかなかったのに、ヘビが出てきた途端に、そのヘビの過去についても調べるように大騒ぎを始めたのだ。今これからヘビをどう退治するかを考えるよりも、ヘビがしてきたことに拘る。なんとも面倒だなと思う。何が楽しいのだろう?

 そんなことを考えながら、すいません、すいません、と繰り返す事務方と調整を続けている。踏襲すること、いわゆる前例主義が正義の国において、前任者が気づいてない事象を見つけるのは大変だよね、と素直に思う。一方的にその方が悪いのではないし、事務方からすればヘビを叩き起こした私は憎くて仕方なかろう。申し訳ない気持ちを抱えたまま、非常に複雑な心のまま、休日に会議資料とプレゼンを作っていた。でも、ここでやっつけておかないとヘビはやがて大蛇になり、問題が大きくなって、人の一人や二人など簡単に飲み込まれてしまうのだ。今のうちのここで対処をしておけばラッキーだよね、と思っているのが私の本音だ。だから事務方には申し訳ないのだがつきあって貰うしかない。ごめんなさい。

 そんなこんなと作業をしながらニュースサイトを見てみれば、国会で過去を漁って叫ぶ様が流されていた。うーん、老害叩きが終わって、接待問題に移行している。うん、わかる、そんな高額な接待はおかしいよね。さぞかし美味いモノを食ったんだろうなぁ。持ち上げられて、よいしょされて、美味いモノ食べながら美味い酒を飲んだのだろう。それが「おかしい」と微塵も思わなくなった時点で倫理観が落ちるところまで落ちとる。本音を言えば最初は同情も感じた。首相の息子から飲みに誘われたら、そりゃ出ざるを得ないよね、断れないよね、と思った。しかし、自分の立場で考えれば学長の息子に飲みに誘われる感じ・・と考えて、うーん?普通に断れるなと思ってしまった私は、実社会では出世できないのだろう。ともあれ最初は幾ばくかは同情したのだが、実情が明るみに出るにつれて、もう同情を寄せられるレベルは遠いと思う。ルールから外れるだけでなく、やってはいけないことをやっている、と疑われるに十分な状況だ。

 でも考えてみたら、それも過去のことだ。でも、この過去のことは許されてはならない。そう考えると、私が突いてしまった薮から出てきたヘビに対して、叫びまくっている方の気持ちも同じような正義感から来ているのだろう。過去は水に流して、未来の方を優先的に考える、という私の方針は通用しないし、いつまでも納得してもらえないだろう。そう思った時に、過去は水に流せる事象と、そうでない事象の境界線はどこにあるのか、と考え始めてしまって、とても切なくなっている。自分の中でも、どこに境界があるのか認知することが難しい。

 もちろん霞ヶ関で起きているのは「法律」に関することだ。境界にならない方が問題だ。所属組織の「定款」などもそうだろう。では「規程」「細則」「内規」「要綱」「覚え書き」「申し合わせ」と言ったところはどうか?うーん、と考えてしまう。「規程」は極めて重要な事項だ。法律に絡むモノも多くて境界たり得るが、首を傾げたくなるものもある。杓子定規にいくよりも、是々非々になることもあるような気がする。一方で申し合わせレベルになると、そもそも作成からン十年たった化石のようなものが沢山残っていたりして、現情からはズレていることも多い。

 やたらと全てを文章で残してルール化したがる某助教先生がいる。事務方に噛みついては、その対応の結果を「申し合わせ」とかつけて文字興しして事務方に送りつける。事務方からメール会議に回すように要求する(自分ではしない)。こういう方が一人居ると有象無象に明文化されたルールが出来てしまうのだろう。そして誰も引き継がない。面倒な人が作った面倒な文字は忘れ去られて、薮にヘビとして潜むようになる。ちょっと前に、その先生に「なんでもかんでも文字化してルールにしてしまうと、ルールに縛られて臨機応変な対応が困難になる。大事なのは実際に事象が起きたときに動ける体制を作ることじゃないでしょうか。あなたが作っているルールは責任者を責める道具にしかならないように思える」とやんわりとお伝えしたところ「駄目だ、こいつ、完全なるバカだ」という顔をされてしまって、それ以降、私は「駄目な奴認定」されてしまった。実際のところ、私は空前絶後に駄目な人間のクズだから仕方ない。

 そして、あの先生は、今後もせっせと薮にヘビを送り込むのだろう。そしてルールがあっても対処が出来なかった時は「オレのせいじゃない」と宣うに違いない。そう思うと、薮に潜んでいるヘビには、それぞれ固有の歴史があるのだろう。そのヘビに個別に話を聞いたら面白いに違いない。薮に潜るには潜るなりの理由や背景が存在するのだ。いつか「薮に潜るヘビの話を聞くハンター」になってみたいと思う。薮を突いてしまった人の、その後の対応も含めて記録していけば、きっと面白い物語が出来上がるだろう。これぞ現代日本だな、という話がそこかしこに埋もれているに違いないのだ。ドロドロの人間模様も出てくるだろう。将来に残すべきストーリーがそこにはある。

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