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揉め事や悩み事を抱えている時に「午前4時44分」はやってくる

 夜中に目が覚める。時計を見ると「午前4時44分」だ。またか、と思う。ノドがカラカラだ。たぶん酷くうなされていただろう。

 去年リアルタイムオンラインでやった大学院の講義を、今年は(対面でやる予定だけれども、対面が出来なかった時のために)オンデマンドの準備をしておいて欲しい、と突然に言われたためにオンデマンド講義の録画に追われている。色々と考えた結果、大学院生用の講義なので、日・英の両方を作成している。リアルタイムならば、学生さんがどこまで理解出来るかを見ながら出来るが、オンデマンドではそうはいかない。なのでコマ数の倍を作っている。土曜も日曜も出勤して講義を録画して、チェックして、編集して、を繰り返している。ヘロヘロだ。

 そんななかで、現在、ふたつの面倒事を抱えている。ひとつの揉め事は子供同士の喧嘩みたいなものなので放っておけば良いと思っている。問題は、昨日に突然降って沸いてきた方だ。解決策を考えなければならないが、真っ二つに分かれている対立意見のどちらも理解出来る。その揉め事の中心にいる私は最も若い。つまり、(言い方は良くないが)御大達と御大達が意見をぶつけ合っているのだが、それを若輩者の私が裁かなければいけない状況にある。居合いの達人達が斬り合っているところに見習いの審判みたいなのが入らねばならない。しかも、必ずどちらかを勝者に決めなくてはならない。どうしたものか有効な手が打てずに困っている。逃げ出したい。

 こういう時、眠りが浅くなる。そして「午前4時44分」に会う。これまでの人生で何度も「午前4時44分」に出会ってきた。今日だって、まだ眠りについてから数時間だ。やけ酒も飲んで寝た。ぐっすり寝れるはずだった。なのに「午前4時44分」がやってくる。悩んでいる時、困っている時、書きかけの論文の事で頭がいっぱいの時、リジェクトされて落ち込んでいる時、そういう時に「午前4時44分」に出会う。

 4が3つも並ぶ不吉な数字だ。私は科学者だ。迷信など信じないし、確立の問題+記憶の問題だというのは理解している。でも、この数字が現れると「またか」と考えてしまい、目が冴えてしまう。その後に眠りに就くことができない。

 台所に行き冷えた麦茶をぐびぐびと飲んで、静かな部屋の中でじっと考える。静寂の中で耳鳴りだけが響く。耳鳴りだけの世界で身体が落ちていく。眠くはならない。意識ははっきりとして、こんがらがった紐を解くように、もめ事の解決法をずっと考える。ついでに返事を保留したままの論文のレビューの回答も考える。レビューの返答と、面倒事の解決方法の間を行ったり来たりする。もしかしたら、寝ていた時も意識の下は同じ事をしていたのかもしれない。身体は寝ていても、脳が寝られなかったのか。身体はぐったりと重い。見えない重力を身体の隅々まで実感する。見えない何かが体中にへばりついて、身体を地面の底に引きずり込む。「午前4時44分」はそういう時間だ。

 ふと思い立って、外に出てみた。空気がひんやりとして気持ちいい。誰も動いていない。静かな時間。こういう時間に散歩をすると気持ちよいのかもしれない。しかし、今のご時世で風邪を引いては困るので、直ぐに部屋に戻る。そのまま始まったニュースをぼうっと眺めて、インスタントの味噌汁を飲んで、ヨーグルトを食べて出勤した。「午前4時44分」に出会った日は身体が重い。今日は帰りにレンタルビデオにでも寄ろうと心に誓う。コメディかSFでも見て、頭の中を別の何かに置き換える必要がある。そうしないと、また「午前4時44分」がやってきてしまう。

 やがて偉い人が登場して、鶴の一声を発することになる。たぶん、揉め事はそういう解決方法しかないだろう。どうやって、その道にもっていくかである。いつまで議論を続けるか。議論の全ては無駄ではない。議論することで見えてくることもある。でも、長く続けることに意味はない。頃合いをみて撤退するか、その先の段階に進まねばならない。日本中で同じ事をやっているのだろうと思う。そして、その多くは「生じるのかよく分からないifの世界」を幾つも幾つも幾つも無限に作り出して、それへの対応プランを考えている。結果として日の目をみない何かが大量に生まれるている。そうやって全てがゆっくりしか進まない。ifを幾つも幾つも作って、自分たちには責任がないと言える準備をしてからでないと、何も始められない。それがこの国だ。

 「○○になったら、どないすんねん? 誰が責任とるんよ?」

 自分より立場が上の人がこの言葉をいう度に、うんざりする。吐き気がする。昔、「じゃぁ僕が責任を取ります、下が責任とるといって勝手に始めた、もしくは自分は知らなかったと言えばいいです」と面と向かって言ったことがある。凄く嫌な顔をされた。そりゃそうだろう。でも、確かその時は、その場で決断しなければ間に合わなかったのだ。そんな石橋を叩きにいっていたら間に合わなかったのだ。傷口を小さいうちに塞ぐ必要があった。今ではスピードが要求されている場合、自分で責任をとると決めて、敢えてボスに相談をしないで決断することも増えた。事後報告はしているが。

 と偉そうなことをいっておいて情けないが、私は学生と実験する時には「Bプラン」を用意することが多い。Aプランの実験でデータが出なかった時に備えて「Bプラン」を予め作るのだ。そのBプランは採用されないことが殆どだ。ただ、そのBプランは、いつか別の人のAプランになる。Bプランだったのに、やってみたくなる。そうしてAプランに昇格する。予備のプランがあることは、学生の心の余裕を生むと勝手に信じている。しかし、もしもの場合の実験まで準備するのは学生さんからすればしんどいだろう、とも思う。見ている視点によって、余計なお世話でしかないのかもしれない。

 今、目の前で起きている揉め事も、見る視点を変えれば、意味のあることばかりなのかもしれない。立場上は裁かなくてはいけないので「午前4時44分」がやってくる。きっとこれを解決しても、また別の日に違う案件に追われて「午前4時44分」はやってくるだろう。いつになったら「午前4時44分」とお別れできるのだろう?

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