〜私の人生って〜

〜社会人一年目〜
大手金融機関での研修生活がスタートした頃

何百人といる同期の雰囲気は久しぶりの高校生活みたいに、クラスに分けられてスタートした。

メモにとる情報量に溢れ時間内で処理しきれない上に、集団での行動は会話が通じないこたが徐々にばれ始めていくのがわかった。

いつの日か転校したあの日みたいに、クラス替えが行われたあの日みたいに私を見る人の目が変わり始めた。

注目されていただけに派手に目立ちながら崩れていく私の信用。

ああ、こんな経験は何度目だろうか。

必死に抗っても仕方がない繰り返し。

対策を講じてきたけれど、時間内には処理できなかった。

もし仕事時間が短ければ、家では、仕事中演じる「ちゃんとした私」を仕込むことができただろうが、実際拘束時間が長すぎた。

ただ、子供の頃と違ったのは私が大人の女になったことで、子供の頃と全く同じ冷遇を受けたわけではなかったことだ。

懸命になる姿を笑う人もいれば、手を差し伸べる人もいた。

そんな優しい人にも理解ない言葉をもらうとイラついてしまう。

助けてもらっているのにやはり理解されないんだという自分本位な考えなのかもしれない。

助けてもらうことしかできないんだな。

私は所詮そういう立場にしかなれない。

えら呼吸できなくなったのに水中に居続けなくてはいけないカエルみたいに、私は醜さ全開でアップアップしていた。

「私、音声言語があんまり処理しきれないんです。」
本当のことだったが社会からは言い訳としか受け取られなかった事情を人事に話した。

当時、発達障害という概念が社会に出回っていたせいなのか、入社から一ヶ月を過ぎる頃には人事の人から頭ごなしに責められることはなくなっていて、私の行動にクラスの研修担当者が特別に付き添ってくれたりしていた。

申し訳ないとも思ったが、私は本当に無能で戦力外なんだと思った。

どんなに辛くても感情を殺して諦めないと誓ったのに、努力で積み上げた自信はガラガラと崩れていった。

結局二ヶ月で会社を辞めた。
その頃には誰も引き止めなくなっていた。
あまりにも私が社会に適合しないことを周りも知ってしまっていたから。

「私だって頑張ればできる」という大学時代に崩さないように必死だった前向きな気持ちは「私に生まれたらどんなに頑張っても無理なんだ」に変わっていた。

そもそも当たり前の生活がおくれないんだから。
自信をなくさないようにその当たり前すぎる事実を長年見ないようにしていただけの話だ。

私よりも努力していない人たちからバカにされる人生しか私には待っていないんだ。

今までそうだったようにこれからも一生苦労するんだ。
子供にだって遺伝するんだ。

夢も希望もなかった。

結局私の人生は社会に出ても地獄だし家に引きこもっていても辛いことが頭の中で繰り返されるだけで地獄だった。

23歳という若さ、普通は人生で一番楽しいであろう時を、私はただ死を待つように寝てばかりいて動かないまま過ごした。

会社を退社してからの日々は、会社時代、愚痴一つ溢さずに会社に行き、家で勉強をしつづけていた日々から一変した。

私は毎日死にたい死にたいと母親に言うようになっていた。

こんな人生なら生まれてこなければ良かった
と本音をぶつけて悲しませてばかりいた。

「今までが大変な人生だったならば、これから楽しくすればいいじゃない」
とか
「どこか旅行に行こうか?天国みたいなところが沢山あるんだよ」
とか涙ながらに言っていた。

でも全部否定して、拒絶的な反応を崩さなかった。

「働けないのに旅行なんて行く金ないよ」

「どこに行ったって何をしていたって私に生まれたんなら仕方ないんだよ。」

例え楽しそうなことをやったとしても、普通でない私はみんなにそういう目で見られることになる。

やってみたいなぁとか面白そうだなと思ったことにも参加することができなかった子供時代を彷彿させていった。

当時、母親は「なんでもやりたいならやってみればいいじゃん」と、気楽なことを言っていた。私にだって理由なんて説明できないけれど、人と同じように動くことはできなかったし、失敗した時の代償は他の人にはわからないほど大きかった。そしてそのことを説明する言葉さえもわからなかった。

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