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ライン川でのデジャヴ(#シロクマ文芸部)

 懐かしいと感じるはずもない場所で、私は長い時間立ち尽くし動けなくなっていた。

 10年間同棲生活をしていた幹夫から別れを告げられたのは去年の年末のことだった。
「このまま一緒にいてもお互いの為にならないと思うんだ」
 私だってこのままで良いなんて思っていなかった。
 結婚して家庭を築きたいとか、子どもが欲しいとか、まして安定した老後を考えてとか、そういうことではなく、同じ姓を名乗って人生の同志という間柄でこの先も歩んでいけたらと、漠然とだけど考えていた。
 それは私だけだったと初めて気付かされ、目の前に置かれたコーヒーカップがグラグラと揺れている。
「幹夫はこれからどうしたいの?」
 やっとの思いで口を開いた問いに幹夫は、
「起業しようと思っているんだ。心機一転ゼロから始めたいんだ」
 ゼロから始めるって、それって私は不要ってこと____。
「もちろん、君をここから追い出したりなんてしないよ。必要ならそれなりの費用を用意しているし、僕がこのマンションから出て行こうと思っている。だから・・・・」この先の言葉はもう聞きたくない。
 起業したいから、心機一転ゼロから始めたいから、そんな言い訳を鵜呑みにするほど愚かじゃないわ。

 幹夫との思い出が、陽炎のように残っているマンションに居続けるのは耐えられない。なるべく遠くの地に自分の身を置きたかった。
 傷心旅行じゃない、新天地を探す旅なのだと自分に言い聞かせ、仕舞い込んでいたパスポートを手に取り、ドイツへ飛んでいた。
 行先はどこでもよかった。今の生活から場所も環境もなるべく遠いところ。異世界があるなら迷い込んでしまいたいほどに、異空間に身を置きたい心境だったのだと思う。

 辿り着いたのはドイツのライン川沿いにある古城ホテル『アウフ・シェーンブルグ』
 部屋の窓からはライン川を望むことができ、チェックインした時はサンセットで空が茜色に染まっていた。部屋にある家具や内装は中世貴族の生活を彷彿とさせる雰囲気を漂わせている。
 外の空気を吸いたい。
 部屋に用意されていた発砲ワインを飲み干し、夕日に染まるライン川の畔まで歩いていく。
 川沿いの遊歩道では犬を連れて散歩をする近隣の住人や、観光客と思しきグループとすれ違う。
 遊歩道にあるベンチに座る。
 ライン川に吹く風が私の肺の中に満たされていく。
 ワインのせいだろうか、私の中で徐々に覚醒されていく光景が、目の前の風景に重なって霞むように移ろい、徐々に姿を現していった。
 それは月の光で照らされた雪景の川辺。
 川沿いの道路は明らかに舗装された現代の造りではなく、時代がかなり遡っているようだ。確かめる為に、つい先ほどチェックインした古城ホテルを仰ぎ見ると、月をバックにそびえ立っていて、ついさっき歩いてきた城までの歩道は、切り立った崖で整備されていない。
 雪に覆われた川の桟橋に、一艘の小舟が着けられている。
 お城の方角から、数人の人影が走り込んできた。一人はドレスを着た女性で、その女性を庇う様に長いチュニックとマントを羽織った二人の男性が寄り添っている。
「さあ、早く。追手が来る前に」と、一人の男性がドレスの女性を舟に乗せ、もう一人の男性は女性と一緒に舟に乗り込み、オールを漕いで川下へ霧と共に消えていった。
 まるで映画のワンシーンが再現されているかの様だった。
 この時の出来事は覚えている。
 覚えているというのは流石に自分でも変だと打ち消そうとしたが、これがデジャヴというものなのだろうか、間違いなく私の記憶の中の断片に刻まれていたものだ。
 その女性は、いや私は、城の主から従僕と一緒に逃げている最中だった。
 その後のことは覚えていない。捕まってしまったのか、それとも二人で安住の地を見つけて幸せに暮らしたのか。
 ただその時の私の胸の高鳴りが、今の私の心をかき乱す。
 この時の私は未来に夢を馳せていた。自らの手で幸せを掴み取ろうとしていた。
 私だって幹夫から逃げる為にここに来たんじゃない。
 これから先の私の未来は、私だけのものだ。

 いつの間にか夕日は沈み、川沿いの遊歩道には街頭が灯された。
 さあ、ホテルに戻ってディナーを食べよう。
 明日は明日の風が吹くのだから。
 
 
 


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