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PureJapaneseの「暴力性」ってなんだろう?【鑑賞録おかわり編】


 前回のPureJapaneseのnoteには沢山の反応をいただきありがとうございました。

 小川真司プロデューサーに紹介していただいてからめちゃくちゃエンゲージメントを獲得しております。特に一番反応の多かった2/15は何が起こっているのかわかっておらず、朝起きてどれくらいいいねされてるかなーとか思ったらえらいこっちゃでした。ついでにいえばディーンさん、松永監督にもリツイートされていました……。ディーンさんのインスタグラムのストーリーにも私の怪文書をひたすらスクロールするリール動画がアップロードされておりましたね。もう一周回って何がなんやらよぉわからん……となっていた次第でございます。凡人ゆえの半分自慢、半分素直な感想です。

 というわけでさまざまなインタビューをファンの方に教えていただいたり、あとはファンの方とおぼしき呟きを見たりという中で考えたことをまたつらつら書こうと思います。前回のnoteを踏まえた上で、もう一歩踏み込んだところで考えてみたいなあと思っただけですのでやっぱり気持ち悪い文章になる予感が満載です。前回のnoteと違い今回はヘゲモニーだのの用語を入れていますが結局「やべえよな」に帰結する気しかしない。

 ほんっとにお好きな人だけお読みください。あと読後に筆者のことを簀巻きにして鴨川に突っ込みたくなっても本当にやめてね。

1 日本語OSとは

 そもそもの話、インタビューで何回か出てきた日本語OSってなんだろうと思うわけですよ。簡単に言えば多分思考を何語でするのか、という話であるんでしょうけど、それ以上にこの日本語という歴史は看過できないものなんだろうと思います。どこぞで読みましたが日本語というのは死者のアーカイブだそうです。事実、我々が実際に利用する日本語にはいくつかの暗黙のルールがあります。たとえ文法的に間違っていなくても、意味が通じても「日本語としての体をなしているか」と言うのは長い時間をかけて積み重ね上げられたもの。だから文法的におかしくても成立する日本語というのはいっぱいある。国語的にはおかしいけれど日本語として成り立つのです。逆にいえばそれが日本語の難しさであるわけですが。

 で、立石大輔。彼の日本語は文法としては正しいけれど聞きなれない言い回しがいっぱいで、おそらく彼は英語思考を日本語変換しているのでしょう。吉田松陰の句をつぶやくところとかわかりやすいでしょう。言文一致なはずなのにかなり話し言葉が書き言葉と乖離している日本語において、格言を引用することは少ない。だから彼の言葉は滑稽に見える。日本語を利用して英語を話している感じですから。OSという言葉を使うと、Androidが搭載されたスマホに無理やりiOSでしか利用できないアプリねじ込んだ形です。無理やって、っていうツッコミが入ると思いますがおそらくそこを製作者は狙っているんじゃないかな。でなきゃ「OS」という言葉は出てこないですよね。我々のようにOSとアプリが対応して生きてきた人間にとって立石大輔の存在は端的に言うと滑稽で、愚かで、そして嘲笑の的です。

 でもそこに暴力性を感じませんか。

 前回のnoteではあんまり触れなかったですが、こと日本の風潮として殊更取り上げられるのがこういう「どこにも属せない人への暴力性」だと思います。

 すごい突飛に思えるかもしれませんが、立石がもしなんらかの障がいを抱えた上であの行動だったら? 我々は笑うだろうか、少なくとも面白いよなんて言えるだろうか。コンプライアンス重視の世界では特にそういうことはいえなくなっているし思ってはいけなくなっている。でも一転立石大輔は健康体なんですよね。ただちょっと海外で生まれて、いわゆる典型的な日本語思考ができないだけの人間です。だからこそ笑う。笑っていい対象になる

 そこがすごく暴力的だなと思いました。銀幕のウチとソトが一気に曖昧になるのだ、と気づいてすっごいいやな気分になるんですよね。初見時のあの「えっわらっていいの?」という困惑が自分の無意識下での見下し行動の証拠になっていく。自分も日本語OS搭載型なんですよね。そして多分、日本人の見た目要素を持つものの日本語OS非搭載の人全てにこの見下し行動が発動する気がします。

 もし立石が分かりやすく金髪碧眼の異人さん風(この言い方もコンプライアンス引っかかりそうだな、いわゆるコーカソイドという方がいいでしょうか)の見た目であったら、多分また違った反応だったはず。むしろ微笑ましいみたいな目線が向けられてもおかしくない。

 つまり、日本語OS搭載型(とここでは書きますが)のハードウェアたちは日本語OS非搭載型かつ似たようなハードウェアであれば相手を攻撃してもいいと認識してるんじゃないか、少なくともそう言う側面はゼロではないというのがわかると思います。

この暴力性はもうレイシズムとかそういう既存の言葉では表現できないナニカ、なんですよ。特に最近ではすっごい多い暴力のカタチだと思います。そしてそれを鮮やかに描き出し、自覚させていくのが「PureJapanese」が装置たる所以で、ほんっとやべえもんつくってくれたなと思うんですよね。マジで。善良な一般市民のはずなのに、ふとした瞬間すっごい暴力性と排他性を持ち合わせてるという図なんですよあれ。旅行先の町の住民全員蝋人形とかゾンビだった的なホラーにそっくりの構図すぎますが、実際そうなんですよね。そして並大抵のホラーと違うのは銀幕のこちら側もその蝋人形とかゾンビなんだよと自覚させる系の新ジャンルという。やめてくれ。「残穢」レベルにトラウマなるわ。しかも「残穢」は理不尽すぎるけれど「PureJapanese」の自覚のさせかたはみっちり理詰めでくるから手に負えない。少なくとも私は「うわあ……」「うわ……」「う……っわ……」みたいな三段落ちを体感しました。やめてくれよ。

 そうやっていつもは潜んでいるのにふとした瞬間牙を剥く日本語OSという無意識。その持ち主、あるいは宿主である我々の今までやってきた無自覚の暴力を体感せざるを得ないんですよ。この映画。もう怖くてたまらん。ようこんなん思いついたな……。

2 西洋の「まなざし」の中の日本

 というわけで一番書きたくなかった2番目をしくしく書いていこうと思います。この章の話、正直なところ日本近現代史専攻だった学部生時代の齧ったな〜〜というおぼろげな記憶を頼りに書いています。もちろん数冊手元にあるのでそれを参考にもしてますが……ああ苦手。正直歴史学科だったくせして「なんでこんなことやってんだろう?」で止まってしまったため、卒論が優良可不可のうち可だった人間です。それどころか殆どの卒業科目がギリギリでした。まあ今までの文章を読んできた方にはお察しの通りかと思いますが、アホです。そういうわけなので挙げた図書に関しては確実にざっくり説明しすぎでしょう。気になった人は読むことをおすすめします。

 おそらく立石に対する我々の態度が暴力であるとすれば立石の立ち居振る舞いもまた暴力でしょう。その、もちろん彼は殺人というとんでもないことをやらかす人ではあります。彼の中の狂気に最後アユミに対する正義感というか忠誠心が火をつけたからラストシーンに繋がるわけだし。でもそれ以上に立石の体現する「日本」というものがとっても暴力じゃないか……そもそもこの映画で描かれている「日本らしさ」がとんでもなく西洋目線じゃないか……と思います。

 小川真司プロデューサーの載っけてたあのプレスシートをざっと読むに、おそらく今回の映画は意図的に西洋のまなざしの中の日本に終始しているというか。グローバリゼーションすることでナショナリズムが逆に浮かび上がってくるっていうか。……。なんかこの言い方嫌だな。こう、アイデンティティなんて相対的なもんですからね。見られなきゃ、まなざしの中でなきゃ浮かび上がって来ないわけです。どこぞのインタビューでディーンさんが語ってた「博物館」というのはすごい分かりやすい例えだなと思います。日本は、今や見られる側です。京都を例に出すと、ユネスコの認定以降京都は急に観光化が進みました。それまではむしろ工業都市であったのが京都だそうです。でも、ビジネス的な視線、もっというとグローバルなビジネスの視線で言えば観光の方がお金が儲かるし、そもそも京都の町屋なんていうものが観光資源になるなんて思ってなかったんじゃないかな。結果、様々な人に見られることを前提として「ピン留め」が発生してしまっている。

 もちろん、文化財を文化財として保護することはおかしくない。むしろ史料として残すことも重要なことです。だけどそれだけでは発展していかない。京都で今何が起こってるか。町屋を壊した後新しく建物が建てられないんですね。条例で。だからもし老朽化してどうしようも無くなった場合は取り壊して、更地にして、パーキングにでもするしか方法がない。とまあ愚痴混じりになりましたが、実際そういうことが起こっている。

 さらに最近は西洋だけじゃないですよね。中国でも「日本風の」観光地がオープンしたそうですから、すっごい「日本風」ってのは人気なんだろうとは思います,そしてそのまなざしに現代の日本社会(便宜上ここではそう言っておきます、範囲も定義も難しいけれど)が迎合しているのも事実でしょう。何度かヘゲモニーと言っているのはこの点です。いわゆるE・サイードが問題視した「オリエンタリズム」的な発想をビジネスになるからって言って内面化しちゃってる部分があるんじゃない? みたいな。いやなんかこれさらに詳しくいうの難しいけれど。

 そして、サイードとくればアンダーソンじゃんとなったのでついでにこんな話も書いておこうと思います。先ほどの日本語OSの話に繋がると思うので書きますが、「日本」という曖昧な概念自体がすっごい想像上のものじゃないか……という話です。

 B・アンダーソン『想像の共同体』では、めちゃくちゃ大雑把にいうと言葉/言語というものが人々の中で想像の共同体を作り出した……みたいな話をしてます。この時点でだいぶん違うので、まあ一回読んで欲しいんですが、本当にざっくりいえばそんな感じ。つまりそれぞれ別の生活をしているはずなのに、言語で時間を共有することで連帯感が生まれる、みたいな。今冬季五輪やってるので分かりやすいですが、ああいう時に日本の選手を応援するのと似ているというか、あの瞬間すっごい「連帯感」を感じちゃうんですよね。

 そして多分ディーンさんのいう「日本語人」という概念はここに似たところあるなあと思うんですが、その「日本語人」の共同体の中で西洋のまなざしというのは共同体の連帯感を強化してるんじゃないかなと思います。立石はおそらく英語OSの人間ですから、西洋のまなざしでしか共同体の連帯を見れない。だからああいうちょっと変な動作になったんじゃないかな。そしてこの映画のすごいところはそれを言わないんです。言わないけど点と点を結べば朧げだけど見えてくるようにしているというか。だから何食ったらその表現方法思いつくんだよ。ていうかこれ何年仕事なんだ……。

3 アユミとの共通性

 アユミを先日のnoteでは理不尽な子どもとか言いました。実際アユミの行動原理、隠れた自己中心な部分というのはホラー映画の子どもの霊のような怖さもあります。でも今回取り上げるのは最後の「全員殺しちゃって!」ってところです。

 あそこになぜか賛否集まってるそうです。でもあの部分賛否どころかめちゃくちゃ怖くなかったですか。

 その、殺しちゃって! という無邪気さとかもそうだし、立石を自分の武器としてしか見ていない部分もそう。子どもらしいというか子ども特有の傲慢さと全能感もそうなんだけど、それ以上に見覚えのある構図だな、と。

 結局代理人なんですよね、アユミにとっての立石は。いわゆるサーヴァント、使い魔的な存在なんです。でもさらに怖いのは自分に血飛沫がかかっているしある程度の痛覚があるところ。この2つのせいでとんでもない連帯感が立石とアユミの間にうまれてしまっている。最初、私はアユミのあの高揚にドン引きしてたんですけど、でも一方ですっごいざっくり言っちゃうとアユミの高揚というのはマイノリティと自己定義するがゆえ、弱者と自己定義するが故の暴力性と言い換えれるんじゃないだろうかと思います。あの場で少なくとも弱者であり守られなければならないのはアユミでしょう。ヤクザは確実に「悪」であり、だからその構図をはっきりさせるために女子高生の髪の毛を掴んで暴行するヤクザの図が描かれているんだと思います。この図があるからこそ、ある種爽快感を立石vs陣内で感じるわけですよ。我々も一瞬アユミの視点になってしまう。

 なんていうか、そういう構図って飽きるほど我々見てきているんじゃないかなと思います。それどころか自分たちもどこかで己を被害者として、同じ血飛沫を被ったもの同士の連帯感を盾にして、一番の被害者、声を上げ始めた人間を先鋒に追従してはいないだろうか。代弁してもらえる、代行してもらえる、そこに正義を感じる。みたいな。我々もアユミと同じ存在、同じ暴力性を孕んでいる

 アユミの高揚のような、薄気味悪い高揚ってのは今すっごいあるんじゃないかな、と思います。実際アユミをはじめ「こういう人いるよね/こういう構図あるよね」というのでつくっているって確か語ってらっしゃったんですね。ということは、アユミも無作為抽出の誰かの個人的な行動ではなく、ある程度の集団の行動を個人に落とし込んだものじゃないかと思います。そしてそのアユミの行動は一見派手で、リアリティがないかもしれません。でもやっぱりアクションシーンで立石頑張れ! みたいになってしまう以上アユミとの共通項がないわけではないのだ、という証拠になっちゃうんですね。

 最後のアクションシーンは特撮みたいだ、という感想を読んだ時わかるなーと思ったんですが、しかし特撮っていうのは必ず「正義vs悪」の図なんです。でもメタに見た時世の中にそんな単純な構図はあるのか? となります。そもそも正義っていうのは狂気と紙一重ですから。自分が正しいと思い込まなきゃ行動できないでしょう? でもその正しいってなんだろう。その正義も、やっぱり想像上、あるいは妄想上のものじゃないのか。そう考えるとやっぱり立石は狂人だけど本人自身すっごい筋が通ってるんですよ。恐ろしいほどに。虚言癖と見えるのはメタ的に見ているからであって、立石の中には全部ちゃんとストーリーがあるんでしょう。

 でもアユミはひたすら自己中心的です。おそらく彼女の「正しい」は自己都合における都合に左右される。だからあの態度なんでしょう。そして彼女とリンクする瞬間、我々もまた己の中の自己中心性に気付かざるを得ない。

 しかもこの映画何がすごいって淡々とそれを描き出すだけなんですね。悪いともいいとも言ってくれない。事実だけがそこにある。それがまた恐怖じゃないかな。

4 「残穢」との共通性

 この映画の手法は非常にホラー映画の「残穢」に似ているなと思います。

 最初の方でも少しだけ語りましたが、この銀幕のウチとソトを曖昧にして観客に「……あれ?」と気付かせる筋書き、表現。これはホラー映画「残穢」における、部屋に住むことで呪いが感染するという構図が自分にも降りかかるかもしれない、という恐怖を抱かせる方法と似ています。

 でも、PureJapanは理詰めです。あくまで超自然的なものなどなくひたすら事実のみで構成されてしまっている。それがもうね、ほんとにタチが悪いというか(褒めてます)。

  それに、Pure Japaneseという映画を取り巻く環境もその残穢のような薄気味悪さ、自分の身にも降りかかるかもしれないという現象を加速させて行っています。

 はっきり言ってアユミの高揚は、前回のnote以降にふと気付きました。なぜなら、顔の見えないSNS上の人たちが私の意見を「そうだそうだ」と言ったから。noteが拡散されていって、恐ろしいまでに同調されたから。もちろん一人一人の感想だし、何もおかしくない。でもそれが100集まると集団になる。そしてそれは逆に恐怖体験でした。反論意見を見つけたいなといっぱい思った。だから「これは私の意見です」というふうにも言いました。

 多分、この現象は誰も悪くない。だっておそらく読んでくださった方は「本当だ」と思ってリポストしてるし、私も思ったことを綴っただけ。他の監督さんなども「おっ」とか思ってくださっただろうことは想像に難くない。

 だけど、否だからこそ一つの意見が一人歩きしていく構図がどうしてもPureJapaneseに被るんです。PureJapaneseという現象を共有した共同体、そこに意見が出る。そうだそうだ! という多数派ができてしまう。

 だけどこれは第二、第三の立石を産む素地じゃないのかとも思ってしまいます。アユミも、立石少年を拒んだ有象無象の子どもたちも一緒です。結局異質なものを入れないようになるんじゃないか

 とまあここまで書いたものの、もちろんいろんな人に好意的な反応をいただいて嬉しくなかったわけじゃないのも怖かった。ああ、これがアユミに暴力を肯定された立石の気分、と思いました。私は凡人なのですっごい気持ちいいなと思いました。すっごい気持ちよくて、はっきり言ってこの映画をざっくりしか知らないのに評したんじゃないか、という評を読んでは分かってないなとも思いました。

 でもこれ立石と一緒じゃないのか。県議やヤクザという権力に対抗することで正義に理由を得た立石。有名評論家に遠回しに反論することで快楽を得る自分。そこに共通性を見出して、うわ…‥と思いました。自分に。

 これは副作用なのかもしれません。でも、ディーンさんがあくまでいろんな意見を集めようとしていたのに対して自分はなんだ? となった時。ああこれも一つの装置だと思いました。

 もちろん、反論はいっぱいあります。中国系の資本は今京都で不動産を買い漁っているから、ヤクザが中国系と組んで土地買うか? という評論家には嘘でしょう? と思いました。また、ヤクザが県議と組むとかいつの時代、という評にも、いやうちの公の病院のトップとヤクザの関係が前暴露されたけど……とかも思うし。そういう、リアリティに対する評価はなんか、うん、違うなって思ってます、今でも。

 だけど本質的な部分に関してはあくまでこれは自分の考えであると分かっているはずなのに、みんなという顔の見えない人に肯定されればされるほど「強く」なっていく

 その自分をメタで見た時にゾッとしました。

 もちろん前回のnoteに全く違うことを書いたとは思っていない。だけど、それはあくまでひとつの感想である。

 多分、今回の映画は思考停止させてはいけないんです。このPureJapaneseという体験を得た人間はある程度考え続けると思います。それは自分の中で持っておくのもいいし、リポストしたっていい。だけど同調させる必要は全くない。だって、今回の映画は要素であり、それ自体が触媒であり、装置でしかないから。

 おそらく人間は、正解を求める生き物です。考えたくない生き物でもあります。だけど、それだけではいっぱい取りこぼしていく。言語化すれば言語化するほど、言語化できない部分がこぼれていってしまう。だからこそ全てを包括する映画にしたんじゃないかな。

 それが今回、PureJapaneseという映画で私の得た感想です。

 

5 それはそれとして

 というようなものを最後ではなく中途に置くことで最後はふんわり終わりたいと思います。多方面からの攻撃が怖い、というよりPureJapaneseを気に入っちゃった身としてはやっぱりこの体験はこう、口コミしたいもの。

 まあ何回も言ってますけどディーンさん、松永監督、小川プロデューサーという3人はほんっとなんでこんなん作れたんんですか??????? あなた方の腕食べたらそうなれますか??? くらいには思ってます。悔しい。私は元々文学系で活動していましたが、映画ずるい。言語化できない部分も計算して作ってるのあまりにずるい。しかも何がいいとか悪いとか言わないの尚更すごい。

 本当にこの映画は刺さってしまったし、言い方悪いけどこの脳みそ揺らされる感覚はある種の絶頂なんだと思うし、脳内麻薬だなと思います。何回も「キメ」よ! とか思った映画である一方すっごい公開劇場が少なくて気軽にキメられん……というのが本当に惜しい。もっといっぱいキメたい。ミッドサマーも結構キメたのに。

 もちろん円盤になって観てもいいけどこれは……劇場で体験したいでしょう。うん。そりゃ体験ていうはずです。後日考え直してみてこんな感じに落ち着いた怪文書になるけど、また見たら絶対とち狂った感想しか吐き出さなくなる気がする。それくらいクセになる映画なんですよ……。ほんとにずるい。

 実は自分は、基本的にあんまり映画を観に行かない人ではあります。だからこそこれ、と決めた映画は絶対観に行くようにしていますし大概ハズレがない。だから今回も狂ったように通えないのはなんか惜しいなあと思うけれど。

 だけど、一方で冷静になる瞬間もある方が今回は良かったな……と思います。本当に、文章化して整理することで笑いそうなくらいPureJapaneseの「ヤバさ」を確認できたのは、自分にとってはいい作業だった。

 もう一回チャンスがあれば観に行きたいのですが、仕事の関係に加え家族の諸事情で行けなさそうなんですよね……それだけが惜しい。オーディオコメンタリーで気を紛らわしながらもう一回見たい。来週の梅田行きたいんすよほんと。行きてえ……。

 という、本当に刺さりすぎる映画だったんで会う人会う人にとにかく勧めまくっているくらいです。誰が作ろうがなんだろうがヘキに合う映画はとにかくいいし全力で観に行きたいし、そもそも同類はいるのでね……。見たよーみたいな話を言ってくれる人もいたりして、結構自分のオタク人格は盛り上がっている作品でもあります。

 だけどやっぱり……こう……ねえ……惜しいよね。劇場がこういう作品をもっと上映してくれるようになりますように。この5つめはオタク爆発で書こうと思っていたのでそんな感じで締めたいと思います。

 立石という狂った男が本当に刺さる作品だし、このnoteで興味持ってくれた人ほんとみて!!!! マジで!!!!!! かたろ!!!!!

 オカモト

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