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「がんばろう 日本!国民協議会」第12回埼玉読者会(R3.1月)

これは、「がんばろう 日本!国民協議会(http://www.ganbarou-nippon.ne.jp/)の機関紙、「日本再生」の読者が毎月行っている読者会のうち、埼玉の会の報告です。
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「今回のテーマ」
① あなたにとって人権問題とは? 
② 衆議院選挙、各種自治体選挙のおける争点の設定についてあなたの考えは?

【SUMMARY】
社会を構成するのはそこに存在する私たち一人一人である。言葉にすると当たり前のように思えるこの考え方を自分たちの生活の中で実感するためには、どのような視点で日常を見渡したら良いのでしょうか。個人とパブリックについて、「自分はパブリックの当事者である」とどんな時に感じるのかについて、社会活動、人権、選挙をテーマに討論しました。

パブリックの中にある私。私の中にあるパブリック

私たちは「社会」の中で生きています。社会とは、人間の共同生活の総称。つまり、個人の立場を離れて全体にかかわること、「公(パブリック)」であり、一般的には「私」と対義にある言葉ととらえられます。しかし今回はこの「パブリックと私」の関係について、「公」の最小単位が「私」であり、私自身がパブリックであるという自覚をもつ、私とパブリックは同義語でもあるとの認識が大切であるということが話し合われました。例えば12月の読者会で出された子ども食堂の保険では、食事を提供する団体側だけがその活動に責任をもつのではなく、提供される側の人々も子ども食堂という「共同体」の一員である責任をもって参加する。食べ物を受け取るという子ども食堂の当事者であるのだから、「何かあったら運営する側の責任」というお任せの姿勢は違うのではないかということ、同様に、行政との関わりにおいても、公共のサービスを当然のものとして受け取るのではなく、利用する側も、公務員という立場ではないけれど、自分もまた公共のなかの一人であるという、使う側としての振る舞いがあるのだという例が出されました。また、こういった意識が薄れてきてしまったのは、前回の読者会でも出されたマズローの欲求の3段目である「社会的欲求」に必要な共同体というものが、新自由主義によってほとんど崩壊してしまっていることが原因であるという意見も出され、そこから、新自由主義とは一体何なのか、といった議論も再燃しました。

人権の対義語は公共の福祉

今月のテーマである「人権について」の話題に移ると、機関紙で取り上げられていた「天皇家の人権」についての意見が出されました。天皇や皇族には、日本国憲法が保障する各種の人権は認められていません。それが日本の人権問題のなかの重要な一つであるということを今まで私たちは考えないで放置してきている、同じ「人」としての存在に「差」が歴然とあるのが日本の天皇制の根もとにあるのだということから、私たちは人権を考えていかなければならないとの意見が出されました。
さらに「人権」、「人権問題」として思い浮かぶことについて各自の発表では、「自分の中にある差別心を常に意識することをみんながやっていくこと」「人権とは生き方」「個としての尊厳」「生きていこうとする能力、気力の保証」などがあげられました。中でも人権とは「国際人権規約」(人権に関する多国間条約である 経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約 (社会権規約、A規約)、 市民的及び政治的権利に関する国際規約 (自由権規約、B規約)及びその選択議定書の総称であるに基づくものである。 Wikipediaより)の中の人権であって、人権の対義語は「公共の福祉」。公共の福祉に制限がかかることが人権問題であるが、日本ではどちらかというと市民的、政治的な権利に偏りがちである(それが悪いということではなく)という新たな視点が出されました。

「批判」ではなく、「議論」をするために

ここでわかったのは、同じく「人権」の話をしていても、やはり共通の認識ではなかったということです。以前よりコモンズが成り立つためには共通の用語、共通の理解が必要というテーマについて議論をしていますが、やはり言葉は受け取り方がそれぞれ違います。例えば今回の人権について、まず「人権とは何か」という定義を確認したうえで、その中の「何について話すのか」を具体的に示しておかないと、議論のベースが整わないのだという体験をすることができました。
これは、もう一つの議論の柱である今年の選挙についても通じることです。野党は現政権を己の理論をもって批判していますが、そこにお互いの議論がありません。それは政治家だけではなく、市民である我々の中にもあり、日常で政治の話をすることがためらわれるのは、世間から批判をされることが怖いからです。批判ではなく、議論ができるのであればそれは意見となり、制限されるものではなくなります。市民は「なぜ支持をするのか」を伝え、政党、政治家は「何をもって支持されたいのか」という具体的な情報をお互いに出すことができる社会が望まれます。市民として議論をする場合、専門的な言葉や理論の話だけをするのでは実現が難しくなります。私たちの生活に根差した話題、大変なのは自分だけではないのだという共感の中から今社会で起こっていることや課題へと関心をつなげていくこと、理想を追うだけでなく現実をあるがままにうけとめ、お互いに寄り添う姿勢がコモンズをつくる入口になるとのまとめになりました。

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