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バレエ小説「パトロンヌ」(68)

甲斐はバレエKで「ドン・キホーテ」の全幕公演をするにあたり、「ドン・キホーテ」を再振付をした。”再振付”というのは、基本的な振付は先人に従いながら、所々に自分の振付を織りこむ手法だ。
それは「新作としての新たな振付」とは一線を画す。例えば、マッツ・エックらコンテンポラリーの振付家は、「ジゼル」など古典的な演目を、同じ音楽を使いながら現代の精神病棟の物語に置き換えたりして、古典とは全く異なる振付を行う。
一方、再振付の場合は、衣装その他、全体の物語性やトーンはオーソドックスなものとさして変わらない。どこをどう直したのか、初心者にはわからないくらい、馴染んでいる場合も多く、出演者の特徴に合わせてステップやリフトを変えたり、あるいは人数によって新たにバリエーションを一つ加えたりするくらいのことで終わる時も多いが、場合によっては一場丸々書き起こしたりすることもある。

男性プリンシパルとしてレジェンドの一人・ヌレエフは、パリオペラ座の芸術監督時代に再振付をかなり行っているが、”ヌレエフ版”は男性ダンサーが活躍する場面が多いと言われている。甲斐もまた、ロイヤル時代何度もバジルを踊った身として、自分ならではの「ドン・キホーテ」の世界観を持っているはず。それらを全て注ぎ込み、作られた舞台は、きっと超絶技巧の嵐であり、バジルが踊りまくる、そんな華やかな作品になるのではないか? 誰もがそう思っていた。実際、細かいステップやスピード感あふれる群舞は予想通りダイナミックで、すべての観客を幸せにした。しかし、甲斐が作り上げた舞台の世界観は、ファンの予想を200%上回るものだった。

幕開け。
序曲が流れる中、薄い紗幕の向こう側に、仄暗くキホーテ翁が見える。書斎で本を読んでいるのだ。すると、一人の貴婦人がどこからともなくやってくる。物語に登場した女性だろうか? その名はドルシネア。キホーテ翁は立ち上がり、その女性を追おうとするや、キューピッドが現れて翁の前に立ち、1本の矢をハートに打ち込んだ。

その瞬間、高らかに鳴るオーケストラの響き。射抜かれた左胸を掌で押さえ、天を仰ぎ見て恍惚とするキホーテ。
愛と忠誠を誓う貴婦人がついに見つかった!
キホーテの恋!

翁は机の横で眠りこけていたサンチョ・パンサを叩き起こす。甲冑を身に付け、槍を持って、キホーテ翁は中性騎士の格好でドルシネアに会いに行く旅に立つ。

すべてはここから始まった。
ドン・キホーテの物語として。甲斐が作り上げたのは、バジルの物語ではなく、「ドン・キホーテ」の物語だった。(つづく)



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