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バレエ小説「パトロンヌ」(9)

KAI暦3年

  夫がくれた一枚のバレエチケットは、ミチルの人生に今までとちがった彩(いろどり)をもたらした。「ダンス」だ。人間の肉体が織りなす究極のパフォーマンスは、驚きと溜め息と感激の連続をもたらしてくれる。どんどん深みにはまっていく自分がそこにいた。
 よく、スポーツ選手の動きを見て「美しい」と感じることがあるが、スポーツの美が、無駄のない、いわば削ぎ落とされた「結果」としての美であるのに対し、ダンスではまず理想の形が先に示され、その形に向かって美を形成していくといった違いがあるように思える。バレエの美は「無理を通した美」であり、だからこそ人間わざとは思えないのだろう。
 裏を返せば、技術が備わってなければ実現できない「美しさ」なのだ。スポーツにおいて「美」を感じられるアスリートが、超一流のみに限られるのと何ら変わりはない。とりわけ形式や振付が定まっているクラシックの伝統的な演目において、まずは完璧な技術が要求される。先に「一流どころ」を目にした人間が、同じ作品を二流三流のパフォーマーで見れば、明らかに「質」が劣っているのがわかるだろう。そこに「曲想」がない。自らの感情と音楽を同調させることも、そのための創意工夫も、従ってアピールするものもない。一見技術があるように見える人でも、単に譜面を覚え、その通りに弾くピアノ生と同じく、精一杯な感じが観客に伝わってしまう。自分の身内の発表会でもなければ、チケットを買ってまでそんなダンスを見るのは苦痛でしかなかった。ミチルはせっかく好きになったバレエに出かけて「失望」するのを極端に恐れ、わからないながらも観に行く公演を慎重に選んだ。

 その点で、バレエ・ガラ・コンサートは都合が良かった。各バレエ団の主役級が顔を揃えることが多いので、「はずれ」が少ない。「白鳥の湖」のように何時間にもわたる全幕ものの中から有名な場面だけを披露してくれるので、初心者のミチルにとって知識の集積にもなる。また様々な作品の「さわり」を体験することは、自分の好みを確かめる場にもなった。いくつか盛り込まれるコンテンポラリーもチェンジ・オブ・ペース。スパイスのような刺激となって目先が変わり、飽きることがない。その上、チケット代も全幕公演に比べ割安に感じられた。チケット代が抑えられている大きな理由の一つはオーケストラによる生演奏がついていないことなのだが、この時点ではまだ、彼女にその「質の違い」を肌で感じるまでの経験値はなかった。
 だからロイヤル・バレエ団が来日したと知っても、ミチルは積極的に見に行こう、という気が起きなかった。S席に数万円を出したからといって、必ずしも前から何番目という席が取れるとは限らない。主役はうまいだろうが、コール・ド・バレエと呼ばれるたくさんの「その他大勢」はどうか。大枚はたいてチケット買って、元は取れるのか? そう考えると、「観てみたい」気持ちは湧くものの、何が何でも、といった気力は萎えてしまうのだった。

 ところが、そんなミチルを躍起にさせる事態が起きた。(つづく)

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