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バレエ小説「パトロンヌ」(45)

KAI暦13年

もし誰かに「一番好きなバレエは?」と聞かれたら、ミチルは「ジゼル」と答えるだろう。
もちろん「ドン・キホーテ」も好きだ。甲斐が踊るそのソロパートが彼女をバレエの世界にいざなったのだし、ロイヤルバレエでも他のバレエ団の客演でも、溌剌として踊る甲斐のバジルは最高にカッコいい。
それでも、やはり一番は「ジゼル」。「ジゼル」はミチルにとって「舞台から言葉が聞こえてきた」初めての作品だった。

6年前のロイヤルバレエの来日公演で、ミチルは初めて全幕の「ジゼル」を観た。タイトル・ロールを踊るのはダイアナ・ドーソン。甲斐はすでにプリンシパルにはなっていたが、相手役のアルブレヒトは、来日した男性プリンシパル9人のうちの、別のダンサーだった。東京文化会館の4階の席から見ると、舞台の上のダンサーたちは豆粒のようだ。当時はまだ「オペラグラス」なるものを携帯する「知恵」を持ち合わせていなかったミチルは、必死で目を凝らし、ダンサーたちを追いかけた。

王子アルブレヒトは、狩りの最中に田舎娘のジゼルを見染め、庶民に身をやつして逢瀬を楽しむ。最初は警戒していたジゼルも次第に心を開き、彼との恋にのめり込んでいく。「よそ者には用心しろ」と忠告する幼なじみのヒラリオンにも耳を傾けない。デートの最中、花占いに興じるジゼル。この恋は実るかしら? 1枚目、叶う。2枚目、叶わない。3枚目、叶う。アルブレヒトの前で最初は1枚ずつ花びらをむしっていたジゼルだったが、残りの花弁の枚数を数えると、「叶わない」で終わるのがわかり、しょげてしまう。

「そんなことはないよ、見せて!」
アルブレヒトはジゼルから花を受け取ると、こっそり1枚花弁を捨てて戻す。
「ほら、数えてごらん」
ジゼルは「叶う」で終わる喜びに顔を輝かせ、2人は葡萄の収穫を祝う若者たちと共に、踊りを楽しむ。

風雲急を告げるのは、別行動をしていた狩りの一団の存在だ。ジゼルの家の近くで休憩をとることになり、その中にはアルブレヒトの許婚バチルドもいた。アルブレヒトの振る舞いを訝しがっていたヒラリオンは彼が王子である証拠を見つけ、再び狩りへと野に出た貴族の一団を敢えて角笛で呼び戻す。自分の想いびとであるはずのアルブレヒトが王子で、そのうえバチルドという許婚がいることを知ったジゼルは、嘆き、悲しみ、精神を錯乱させていく。

周りのものが見えなくなったジゼルは、アルブレヒトとの甘い思い出に浸る。
2人で踊ったわよね、花占いもしたわよね、「叶う」ってなったよね……。
ジゼルは1枚、また1枚、想像の花びらをゆっくりとちぎっていく。

1枚目、叶う。2枚目、叶わない。3枚目、叶う、4枚目、叶わない、次も、次も、次も次も次も次も、叶わない、叶わない、叶わない、叶わない!

一心不乱に首を振り続け壊れていくジゼル。支えようとするアルブレヒトやヒラリオンの手を払い退けて、ジゼルは走り出し、もがき苦しみ、そして息絶える。

倒れたジゼルを抱きしめながら、アルブレヒトはヒラリオンに向かって叫ぶ。
「お前のせいだ!」「お前が要らないことをするから!」
言われたヒラリオンも言い返す。
「あなたのせいでしょう! あなたがジゼルを騙した!」
「何だと!」

……そう聞こえた。言葉のないバレエだけれど、ミチルには聞こえたのだ。
誰も喋っていない。それでもジゼルの、アルブレヒトの、ヒラリオンの心の叫びが。(つづく)




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