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バレエ小説「パトロンヌ」(58)

第二幕が終わった。マユは最前列で、オーケストラボックス越しにビロードの緞帳を黙ってみつめている。視線はそのままに、彼女は隣りのミチルに声をかけた。
「あのね、ママ」
「なあに?」
「覚えてる? 私がバレエをやめた日のこと」
「……うん、覚えてる。バレエシューズを脱いで……」
「そう、バレエシューズを脱いで、バーンって鏡にぶつけて。習って何日目だったっけ?」
「何日目ってことはないわよ。でも、……5回目くらいだったかな……」
マユは座席にのけぞるようにして、大きく笑った。ミチルもつられて苦笑する。
「もう、ママ背筋が凍ったわよ。先生、顔面蒼白だったから」
「でもさ、先生、私の両手をとって、ニッコリ笑って、『マユちゃん、なんでそんなことするの?』って、ニッコリ笑って……あー、あの作り笑い、忘れられないわ!」
「お稽古が終わるまで、ママ、針のムシロだった。他のお母さんたち、チラチラ私の方を見るし……」
「そうだったの? それはわかんなかったな。でもさ、ママ、怒らなかったよね。それは覚えてる。っていうか、絶対怒られると思ったから」
マユは真剣なまなざしになっていた。
「まあ、あのバーンっていう、とんでもないことを見せられてね、ママもなんていうか、目が覚めたっていうところがあるのよね。お教室に行くのをしぶる感じがあって、無理させてるのかなーって、うすうす感じてたんだよね。でも、せっかく始めたんだからっていう思いがあって。…始めたも何も、私が始めさせただけで、マユが始めたわけでもないのに。…ごめんね」
「ううん、私こそ…。やめちゃってごめん」
マユは立ち上がり、オーケストラボックスの中をのぞく。ミチルには、なぜかマユの背中が、ふと寂しそうに見えた。
「どうしたの?」
「あのね、私、ずっと自分はバレエが嫌いだと思ってた」
「うん」
「でも、それ、ちがった」
「え?」
マユはミチルに顔を向け、少しバツが悪そうに告白する。
「私、バレエ、好きだと思う。今日そう思った。でも、あの時は、あの先生が嫌いだったの。あの作り笑いが嫌いだった。私のこと気に入らないくせに、作り笑いして、でも目が笑ってなくて、この先生にほめられることしなくちゃいけないと思うと、本当にいやだった。だから、ママがやめさせてくれてうれしかったけど……でも、バレエは、あの頃も嫌いじゃなかったと思う。でも、バレエと先生とがごっちゃになって、そのことが自分でもわからなくて……」

(ほんとはバレエが好きだったのか……)

「ごっちゃになってたのは、ママの方だったかも。あのときマユは、まだ幼稚園の年少さんだったよね。それで『やめたい!』ってはっきり意思表示したなんて、マユはほんとに大物だよ」
「ただのわがまま娘じゃん。バレエシューズ投げて」
「それに比べて、ママは大人なのに、あなたの気持ちがわからなかった。サッカーがんばるようになったし、だから、あのときバレエをやめてよかったって思ってた。でも、それはちがったんだ……」
「ちがわないよ」
「ううん、先生と合わなかったんだから、他のお教室に変えてあげればよかった。そうしたら、マユ、バレエを続けたかもね」
「続けたかもしれない。でも……続かなかったかもしれない」
「次のお教室でも、バレエシューズ、バーン!って?」
「あるかもー」
マユとミチルは顔を見合わせて笑った。会場にチャイムが鳴り響く。
「あ! 五分前! トイレ行ってくる!」
「えー? 今から?」
駆けだすマユの姿を追いながら、今日ミチルを連れてきてよかったと思った。彼女に「バレエが好き」と気づかせてくれたバレエKにも、感謝しなければ。次からは、バレエを観る時マユを誘おう。ミチルは思った。(つづく)

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