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バレエ小説「パトロンヌ」(2)

KAI暦元年

 ミチルが青山ホールでのヤングフェスティバルに駆け付ける4年前、日本のバレエ界にとって、特筆すべきことがあった。若いダンサーたちに有名バレエ学校留学のためのスカラーシップを与えるローザンヌ国際バレエコンクールの会場として、東京が選ばれたのである。グローバル化が当たり前となった今では、中国をはじめアジア系の参加者が多く、決勝進出者の過半数を占めることも珍しくなくなったが、この頃は事情が違う。これによって、多くのアジア・オセアニアのダンサーが参加しやすくなったと言えよう。とはいえ、選考基準が甘くなったわけではない。一次、二次と予選が進むにつれ、脱落者はどっと増え、コンペティターはみるみる選りすぐられていく。

 その模様を、ミチルはテレビで見ていた。というより、その時テレビがついていた、という方が正確だろう。生後4か月の長女の世話に追われ、泣かれるか、抱くか、ミルクを作るかの毎日。夫以外の大人との会話はほとんどなく、「日本語」が聞きたくて、いつもテレビはつけっぱなしだった。

「授乳の時間はテレビを消し、赤ちゃんの目を見て、話しかけながら母乳をあげましょう。人工乳の場合は、特にスキンシップを心がけましょう」

 ミチルも初めのうちは、マニュアル本に忠実にテレビを消し、辛抱強く子どもに笑いかけていた。しかし毎晩のように夜泣きが始まると、そうそう理想の母親を演じてばかりはいられなくなる。寒い夜中に飛び起き、ガウンを着る間もなく娘を抱き上げ、ほとんど眠りこけながら乳を与える。昼も夜も細切れにしか眠れないので、いつもボーっとしていることが多くなった。
 インターネットもスマホもない時代、ミチルにとって、テレビは家にいながらにして社会とつながる唯一の窓であり、たった一人の友でもあった。テレビに向かって独り言をつぶやくようになったらおしまいだ、というが、当時のミチルはテレビに拍手し、テレビに悪態をつき、テレビに涙している時間がもっとも人間らしかったとさえいえる。

 その日も、ミチルは子どもにミルクを飲ませながら、見るとはなしにテレビをつけていたが、それがたまたまバレエコンクールの中継だっただけのことで、特別クラシックバレエへの関心があるわけではなかったのだ。(つづく)



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