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バレエ小説「パトロンヌ」(44)

幕が下りてもしばらくの間、リカは席から立ちあがることができなかった。感動して動けなかったというより、緊迫した男と女の恋の行方を見続けて疲労困憊した、というのが当たっているかもしれない。寝室でのパ・ド・ドゥが奏でる愛の歓びと官能。むさぼるように求め続ける愛ゆえに、互いをつかみ損ねる二人の激情。そして、ラスト。最初から最後まで、固唾を呑んで見守るしかなかった。幕間もなく、はりつめたまま一気に走る二人の愛。終わってみればたった45分間なのに、リカは人の一生を実際に体験したくらいの長さにも思えた。

「バヤデルカ」を観た時、リカは自分の恋愛をバレエに重ねていた。裏切られ、捨てらて、断ち切ろうと思っても消えない恋の炎に焼かれていたとき、ニキヤの踊りはそんな自分の苦しみを体現し、そして浄化してくれた。
でも今度は違う。自分の恋ではない。甲斐とDDの軌跡が、この濃密な時間と空間に閉じ込められていると感じたのだ。愛し合いながら添い遂げられなかった2人。舞台の上で表される歓喜も諍いも、その感情の起伏のあまりのリアリティに、観ている方がヘトヘトになる。リカは今回、初日と楽日の2回チケットを買っていたが、これをもう一回観るなんて、できないのではないかとさえ思った。

しかし公演は明日もある。甲斐とDDは毎夜ホセとカルメンになって出会い、毎夜愛し、毎夜憎み、殺し殺され、そして次の日また出会う。本当に出会い、本当に愛し、本当に諍い、本当に別れた男と女が、である。舞台とは、なんと残酷で、なんと恐ろしいことを役者に強いるのか。
一方で、敢えてこの作品を選び、2人で演じることを決めたのは彼ら本人であることを考えると、舞台に棲む人々の凄みもまた、リカは改めて感じていた。

千穐楽、リカは予定通り劇場を訪れた。息を詰め、身を硬くして、またこの45分間と対峙するのだ。結末を知って観るその舞台は、すべてに「運命」の紗幕がかかって見えた。「運命」に操られた彼らにはどう考えても「別の選択肢」はなく、結局全力で愛し、全力で抗い、そして敗れるほかないことを突き付けられる。なんと緻密な、なんと隙のない物語なんだ! 心臓がギューっと痛む。辛いけど、快感。まさに、恋、である。

甲斐はこの「カルメン」の成功に至福と手ごたえを感じ、メールダンス指向から、女性が主役ということが多い古典全幕上演へと目標を変えていく。「カルメン」はバレエKの新たなコンセプトを決定づけた舞台となった。

「カルメン」を乗り越えたことで、甲斐の中で何かが吹っ切れた。リカはそう思っている。甲斐はDDを正式にバレエKのゲストプリンシパルに招聘、以後「ジゼル」「眠れる森の美女」「白鳥の湖」と大曲で共演する。DDこそ我ミューズと公言し始めたのもこの頃からだ。恋愛感情を越えて本当につながれるパートナーとして、確信できたのだろう。
互いに向き合う愛から、同じものをみつめる愛へ。
バレエKのみならず、寺田甲斐という一人のダンサーにとっても、「カルメン」はRebornの端緒。それを目撃できた幸せを、リカはうれしく思った。(つづく)

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