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バレエ小説「パトロンヌ」(6)

 夏至の夕刻、ミチルは久しぶりに独りでバスに乗った。ぼうっと窓の外を眺めていられる幸せ。おむつとかタオルとかミルク、着替えなど、ちょっとでも使う可能性のあるものをすべてぶち込んだバッグの重さから解放され、小さなポシェット一つで歩く身軽さよ! 今日ばかりは子どもの吐くミルクやよだれで汚れる心配をせず、好きなものを身につけておしゃれができるのだ! 絹のブラウスに袖を通すのも何年ぶりだろう。その感触を指で楽しみながら、ミチルの口元からは思わず知らず、小さな笑みがこぼれていった。

 ふと、バスの窓から外を見ると、ビルの窓ガラスが鏡のように反射して、あたり一面オレンジ色に染まっている。行き交う人々の表情も、なぜか優しげだ。ミチルの目には、見るものすべてが鮮やかに感じられる。
(街って、こんなに美しいものだったかしら……)
 すべてを忘れて何かをみつめ、感傷に浸るひととき。マユが生まれてから初めての、至福の時間だ。バスを降りてもしばらく、ミチルは夏至の明るい夕陽にみとれていた。

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 バレエの公演では、開演の30分前に開場することが多い。ミチルが劇場についたのは、20分前。3列8番の席は、本当に舞台に近かった。ロビーに掲げてある座席表によると、この席は本来オーケストラ・ピットであるらしい。オペラやバレエ、ミュージカルなどで生演奏付きの場合、前から5列目くらいまでの座席がとりはらわれ、仕切られたボックスの中で演奏が行われるのだ。

(もしオーケストラが入っていたら、一番前の席でも舞台ってけっこう遠いのね。)

 そう思った瞬間、小学生くらいの子どもが二人、ミチルの脇をすり抜けて舞台の方へと通路を駆け抜けた。
「走るんじゃありません!」
 背後から母親らしき女性の声がする。子どもたちは、自分たちの目の高さくらいはある舞台の上に手をかけようとした。
「だめだめ。そこはさわっちゃだめ」
 子どもたちはおとなしく言うことを聞いて、自分たちの席へと戻っていく。

ミチルには、子どもの気持ちがよくわかった。こんなに間近に「舞台」があるとは。今日の公演が、もしオーケストラ付きだったら、絶対に触れられないのだ。ミチルは引き寄せられるように前方の通路へと歩み出た。

舞台は床も側面も黒かった。メートルくらい奥まったところに緞帳がかかっている。その緞帳の向こうから、小さくトーン、トーン、という音がした。
 ミチルはそっと舞台の上に手のひらをおく。すると、トーン、トーン、という音とともに、振動が感じられた。

(ジャンプしてる!)

 振動は、手のひらから腕へ、腕から体中に伝わって、ミチルの胸を熱くした。このカーテンの向こうにはもうダンサーがいて、準備に余念がないのだ。開演10分前。もうすぐ幕が開く。ミチルは席に着いた。(つづく)

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