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バレエ小説「パトロンヌ」(34)

 (これから甲斐は、どこへ行くんだろう。)

ミチルには見当もつかなかった。日本に帰れば、もちろんどこのバレエ団でも引く手あまただろう。日本での絶大な人気にあてこんで、ミュージカル界や映画界からの食指も動いていると漏れ聞く。それとも、すでにアメリカなど他の国のバレエ団からオファーを受けているのだろうか。一緒に退団したロイヤルのダンサー数名と、バレエ集団を作るという噂もあった。「数人の」となると、もはやクラシックバレエの全幕物は作れない。コンテンポラリーダンスや、他のジャンルのダンスとのコラボレーションなど、小品発表に舵を切るのかもしれない。甲斐ほどのジャンプ力と表現力をもってすれば、いかなる転身も可能だ。

だが。ミチルは甲斐にクラシック・バレエを捨ててほしくなかった。なぜなら、ミチルの中でクラシック・バレエが輝いたのは、甲斐がいたからこそだから。四角い箱の中にスッとおさまるお行儀の良さが「バレエ」だと思っていたら、甲斐のそれは全く違った。しっかりとしたノーブルさを保ちながらも、その演技には熱い感情と思いも掛けない意外性があった。そのエネルギーは四角いフレームからグッとはみ出し、こちらに向かってくるように感じて、それでミチルは、不意打ちを食らったようにしてクラシックの素晴らしさに取り込まれていったのだ。

クラシックの世界でこそ、甲斐は唯一無二の存在として燦然と輝く。ミチルはそう信じて疑わなかった。バレエのことに詳しくないからこそ、ミチルはそんな自分と同じような人々に、甲斐のバレエでクラシックに目覚めてほしいと思った。

とはいえ、クラシックなら何でもいいとも思っていない。日本のクラシック・バレエは、圧倒的に女性が多いいびつな世界だ。女性が頂点に立つのが至難の技であるのに比べ、男性ダンサーは多少踊れてルックスが良ければ、あちこちの「おさらい会」や「公演」に呼ばれ、それこそ「王子役」でいくらでも稼げるとさえ言われている。甲斐にはそんなふうにはなってほしくない。まだ20代の伸び盛り。一流のダンサーや振付家と出会い、凌ぎを削り、一つ一つ階段を上って新たな奥義を身につけ、誰にも真似のできない唯一無二の世界的ダンサーとして歴史に名を残してほしい、それがミチルの願いなのだ。

ローザンヌのバレエコンクールで金賞に輝き、「この人に足りないのは『踊る劇場』と『バレエ団』だけ」と言わしめた16歳のアジアの少年は、英国ロイヤルバレエ団に入団することにより、足りなかった2つのものを同時に得た。監督に目をかけられ仲間に恵まれ、何よりイギリスのロイヤルファンに愛されて過ごし、今、彼はそのロイヤルを離れることを決意している。26才のプリンシパル・ダンサーという不動の地位を捨てて……。この10年、コヴェントガーデンは今までの彼にとって、本拠地でありホームタウンであったはずだ。そのオペラハウス全面改修は、文字通り「踊る劇場」の不可抗力的剥奪であったかもしれない。「劇場」とともに彼が得たはずの「バレエ団」の方は、彼が自ら手放した。彼を育てた「ホームタウン」のはずのロイヤルは、彼の「学校」だったのかもしれない。「学校」からは、いつか卒業する日がやって来る。

新しい自分を安心して育める場所を、彼はまたその手につかめるだろうか。世界中の劇場とバレエ団が、今も甲斐がやってくることを歓迎しているはずだ。人でもいい、土地でもいい、ここぞと言えるホームタウンを、終の住処となるホームタウンを、今度こそ見つけてほしい。ローザンヌコンクールで感じた「いつか日本のバレエ界を背負っていく人」というミチルの直感は、10年経って今、「いつか世界のバレエ界を牽引する人」になる、という確信に変わっていた。(つづく)


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