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バレエ小説「パトロンヌ」(37)

KAI暦10年

退団の翌年、甲斐はバレエKを設立する。その設立発表会見が、都内のホテルで行われた。会場となる小ぶりのバンケットホールは、若い女性でいっぱい。甲斐のファンクラブ会員が招待されたのだ。その中に、ミチルもいた。
会見者席の後ろの壁には「IndepenDANCE」という垂れ幕がかかっている。会見のほんの直前まで、グループの名前はこうなるはずだったという。「グループ名を急遽変えたのは「同じ名前の集団が他にいることがわかったため」という説明から、会見は始まることとなった。
横一列に並ぶ元ロイヤルの人気ダンサーたちの前には、彼らを少しでも間近で見ようとファンたちが群がるようにひしめき合っている。用意されたパイプ椅子に座れなかったミチルも、前に立っている人の頭と頭の間から、食い入るように彼らの様子を見つめた。素顔の甲斐を見るのは、これが初めての経験である。

そこで何が話されたのか、ミチルはほとんど覚えていなかった。ただ一つだけ、ものすごく印象に残っていることがある。それは会見の終盤、ファンからの質問を受け始めた時だった。

最初の質問者がとても流暢な英語で質問したために、なりゆきで次の人も、その次の人も英語で質問するようになった。途中から、唯一の日本人である甲斐には日本語で、しかし外国のダンサーには英語で質問する人も出てきたが、日本語のみで質問するのはどんどん場違いな流れになっていく。ミチルも聞きたいことはたくさんあったが、頭の中でそれらを英語に変換している間に、(もういいかな)という気持ちになってきた。すると次の若い女性が、たどたどしい英語で質問を始めた。途中で言葉に詰まってしまう様子はかわいそうになるくらいで、ミチルも(無理をしないで日本語で言えばいいのに)と思うくらいだった。機せずして笑いが起きる。それほど大きくはないものの、明らかに会場全体の失笑を買った。その時である。

「なんで笑うの? 一生懸命話しているじゃない。聞こうよ。ちゃんと聞こう」

甲斐は真面目な顔でそうたしなめた。彼女は最後まで話し、甲斐は何事もなかったように答え、そして次の質問に移った。

なんて素敵な人だろう。自分より、ずいぶん年下の甲斐だけれど、尊敬できる人だ。イギリス王室の人々にも謁見したこともあり、有名人ともたくさん会っている。それでも、一ファンの、ささやかな気持ちを汲んでくれる人。どんな人とでもきちんと向き合う人。ミチルは感心した。
もしかしたら、言葉ゆえにうまく思いを伝えられないもどかしさは、彼自身がイギリスで散々経験したことなのかもしれない。そんなふうにも思った。
「バレエK」はこれからどんな顔を見せてくれるのかわからない。でもこれからも、彼と彼のバレエを応援し続けよう。ミチルは心を決めた。(つづく)



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