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バレエ小説「パトロンヌ」(31)

 帰りの電車の中で、ミチルは今夜の感動を何度も何度も繰り返し思い浮かべていた。甲斐のジャンプ。美智子の爪先。肌のみずみずしさ。スピンの時、彼女の腰を支える甲斐のぎこちない手さばき。踊り終えた2人のあいさつ。美智子の、乙女の輝きがまぶしかった。横には、見守る甲斐の、落ち着いた視線。
 フィナーレでは、甲斐はたくさんのトップダンサーより一歩も前に出ることはなく、沸き起こる拍手を舞台の奥の方でじっと聞いていた。唯一、同じロイヤル・バレエのダンサーが舞台に現れた時だけ、いちはやく相好を崩し、片腕を上げて迎え入れていたっけ。

(そして、最初から最後まで、彼女とつないだ手は離さなかった……)

 甲斐と美智子が、もし単なるパートナー以上であったら、と思うと、胸の奥がちくりと痛む。手をつないだだけのあの光景が、自分の目にこんなにも鮮明に焼きついていること自体、ミチルには驚きだった。
 寺田甲斐のバレエが好きだ。もしも彼がプレイボーイで浪費家で、その上意地悪で高慢だったとしても、彼のバレエさえ存在すればそれでいい。そう思っていた。彼のパフォーマンスがすべて、のはずだった。でも新聞や雑誌に「寺田甲斐」の文字や写真を見つけると、それだけで息ができないほどに心臓が高鳴るのはなぜなのか。

(この甘酸っぱい気持ち。それは、初恋に似ている……)

 その人の性格も、生活も何も知らないのに、一目見て好きになり、熱烈に片想いする少女の気持ち。その人の一挙一動を見逃すまいとし、出会えた少ないチャンスの様子を逐一日記に書き、増幅し、やがて実際とはかけ離れた理想の人物を作り上げ、さらに恋焦がれる。恋に恋するお年頃の、あの気持ちにそっくりだ。

 ミチルは、くすっと笑った。
(もう、とっくに三十歳を過ぎているのに。初恋、ですか)

  オーロラ姫は、16歳の誕生日に魔法をかけられ、100年眠ったという。デジレ(待ち望まれた者)という名の王子に口づけされた眠り姫は、時の隔たりを越え、少女の心そのままに目を覚ましたことだろう。
 ミチルの体の奥にも、オーロラ姫が眠っていたのかもしれない。結婚して8年、一児の母親として生きてきた。社会の流れに身を任せ、時には自分を殺し、諦め、それを「おとなになった」と思って毎日を送ってきたのだ。
 でも今、ミチルは感じていた。人間関係の複雑さも、世の中にはどうにもならないことがあるということも知らなかった頃の、純粋で素直だったころの自分の精神が、何物にも妨げられず解き放たれていくのを!

(私の、私らしい魂を呼び覚ましてくれたのは、バレエ? それとも、あなた?)

 夜の電車の真っ暗な窓に、自分が映っている。こちらを見ているその姿に、もはや少女の輪郭はみとめられない。
(そう、私はもう16歳じゃない……。でも、ちっとも悲しくはないわ)
 ミチルはバッグから公演プログラムを取り出して開く。そして甲斐の顔写真に語りかけた。

(私は、あなたより12年早く生まれてきたことを、心から感謝します。なぜなら、あなたのバレエキャリアのすべてを見続けることができるから。十代の頃は、たった1枚のレコードもお小遣いが足りなくて買えなかった。今なら思った時にチケットや雑誌が買える。もちろん、無尽蔵ではないけどね。でも、会社を辞めて家にいて、赤ん坊に授乳していたからこそローザンヌコンクールでの雄姿も見ることができた。かわいそうに、5歳のマユは、すでにあなたの今までを見逃している。そして、私は余命いくばくもないほど年をとっていないから、これからのあなたの活躍を、すべて見届けることができる! ずっとずっと活躍してくれれば、そのステージはビデオやディスクに記録され、文字通り私の「もの」になってくれるでしょう。そして、年に1度でいいからあなたのバレエを劇場で観られたら、私の人生は、どんなに素敵かしら!)

 次に甲斐のバレエを観られるのはいつか、わからない。でも、きっと来るその日を楽しみに待っていよう。ミチルは静かにパンフレットを閉じた。(つづく)

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