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バレエ小説「パトロンヌ」(36)

公演が終わっても、リカにはいつものような至福の時が訪れなかった。納得がいかないのだ。「何か」が胸の中でくすぶって、出口を探していた。

甲斐は「ダンサー・オブ・ノーエクスキューズ」の異名を持つ。「問答無用の男」つまり「言い訳をしない男」という意味だ。風邪をひいていても足を痛めていても、相手役と反りが合わなかったとしても、それを言い訳にすることなく完璧なパフォーマンスをやってのける。100%いや200%、観客の予想をはるかに超え、信じられないほどの歓喜を与えてくれる、そういうダンサーなのだ。

「すごいとは聞いていたが、ここまでとは思わなかった」

甲斐を初めて見た人が、口を揃えてこういうのには、彼が舞台に賭ける並々ならぬ覚悟があってこそである。

この日、甲斐の演技には「緩み」があった。いつもなら音楽と一分の隙もないほどシンクロ性があるのに、それが崩れ、他のダンサーとも微妙にずれる。もしかして、彼は「違い」を強調することを「個性」と考えて、敢えて合わせなかったのかもしれないとも考えた。だが違う。敢えて間合いをずらしていたのではない。ズレてしまったのだ。退団騒ぎで大変だったのか、リハーサルの時間が少なかったのか、疲れているのか、急遽の来日でゆっくり休む場所がないのか、それはわからない。わかろうとも思わない。舞台を見つめながら、観客の方が不調のダンサーを心配し、「言い訳」を考えてあげるなんて、一体どこが「ダンサー・オブ・ノー・エクスキューズ」なのか?

今夜のような客演の舞台の場合、たとえ短期間の稽古であってもきちんと周囲と合わせ、さらに自分のスタイルを輝かせるというのが、ゲストとして求められる才能であり、「ノーエクスキューズ」な男の真骨頂でもあるだろう。違ったスタイルをもつ人たちとの出逢いはその都度新鮮で、得るものも多いと思う。しかしそれを繰り返すだけでは、時間をかけてゆっくりと醸される「熟成」は望めない。そんな中からは、今夜の「ステップテクスト」のような舞台は決して生まれはしない。

「ロイヤル」という箱から飛び出た彼の行く末を、今夜ほど危なっかしく思ったことはなかった。一緒に退団したダンサーたちと新たにカンパニーを起こすという噂もあるが、どんな形態であれ、「寺田甲斐」の顔を見せて単に客を喜ばせるステージを繰り返すだけの商品に終わってほしくない。彼こそ真の「ダンサー・オブ・ノーエクスキューズ」、その舞台を見れば誰にも文句を言わせぬ栄光のダンサーなのだから。自分の内なるバレエへの欲求を正面からみつめ、もっと大きなダンサーになってほしい。ロイヤル退団はそのための新たな一歩なのだ、きっと彼もそう考えている! リカは必死でそう思い込み、不安をかき消そうとした。(つづく)
 

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