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バレエ小説「パトロンヌ」(8)

 伝統的なバレエに比べ、コンテンポラリーと呼ばれるネオ・クラシックやモダン・ダンスは、ともすれば奇抜さばかりが強調されがちだ。しかしこの芸術は、「現代」の空気を内包しているからこそ少々不可解であり、アシンメトリーなのであり、そこが、不協和音を心地よいと感じる繊細な同時代人の心に響き合う。そこに鍛え上げられた肉体があり、何かを表現しようという意思がある。ダンサーのエネルギーはうねりとなって観る者に伝播して、手足の先までみなぎっていく。ステージ上のダンサーと溶け合うような一体感。逆に、彼の踊りがこちらの思いの反映とさえ思てくる一瞬。最高級のエクスタシーである。ミチルも、これまでにない興奮の渦の中にいる自分を感じた。最高級のエクスタシーだ。パーソンズのカーテンコールは、12回を数えた。

 バレエ公演、とひと口に言っても、「白鳥の湖」のようなグランド・バレエ公演の場合何十人というダンサーが出演し、その中には主役もいれば端役もいる。ソロで踊れる人は一握りで、逆に言えば、そうした一握りのスターをより輝かせるために、コールド・バレエと呼ばれる「その他大勢」は絵のように舞台に配置され、演出される。一方ガラ・コンサートでは、ソロやパ・ド・ドゥ、多くても数人で踊る作品が多いので、出られるということ自体、実力を認められた証明でもある。一つ一つの演目は、それぞれ独立しており横並びで、だからこそ「競演」と呼ぶにふさわしいバトルの場にもなる。

 その「バトル」の通知表のようなものが、フィナーレだろう。全ての出演者が順々に登場するのはガラ・コンサートのお決まりであり、その日のパフォーマンスの出来不出来は、登場した時の拍手の量によって残酷なくらい如実に顕れてしまう。何人目かにパーソンズが姿を現わすと、観客はまたぞろ熱狂し、再び惜しみない拍手を浴びせ、それに呼応するようにストロボ照明も再び流された。本邦初公開出会ったパーソンズの強烈なダンスのおかげで、伝統的なクラシック・バレエの踊り手は、相当に割りを食う形となってしまった。忸怩たる思いのダンサーも少なくなかったに違いない。
 しかし、最後に進み出たプリマドンナは「格」が違った。いまだパーソンズへの拍手で劇場がざわついているのを物ともせず、舞台中央に立ってニッコリと微笑む。そして優雅にお辞儀をすると、なんとパーソンズを真似て急にピョンピョン跳びはね出したのだ! 彼女の手を取っていた男性パートナーも、慌ててそれに合わせ、小刻みにジャンプ。つられて照明もまたストロボを回す。彼女の機転と茶目っ気、何より度量の広さによって、「競演」は「共演」へと様変わりし、「祭典」としてのガラにふさわしい、和気あいあいとした幕切れに至ったのである。(つづく)


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