美術館にいってきたよ

 初めましての方は初めまして、げーみんぐです!今回こちらの記事では、僕が初めて「名古屋市美術館」に足を運んだ際の思い出、感想を書き連ねさせていただいております。拙い文章になるかと思いますが、この経験をどうにか形のあるものとして残したい、その一心で書かせていただいております。お時間のある方は是非、ご一読いただけますと幸いでございます。

 さて、前置きはこれくらいにして、僕が経験したこと、それを通して感じたことを、ちょっとずつ書いていきますね!

名古屋市美術館に行ってきたよ!

 僕には縁のないものだと思っていた、美術館来訪。美術に対するふわっとした興味はありましたが、どうも美術館まで足が伸びない…そんな日々を過ごしていた僕。

しかし!

 今回とあるVtuerさんとの出会いがきっかけとなり、こうして美術館来訪の感想を書くに至りました。そのVtuberさんとは…

儒烏風亭らでんさん!

X(旧Twitter)のID→ @juufuuteiraden

 彼女はVtuber事務所である「hololive」所属のライバーさんであり、美術への造詣が深いことで有名な方です。何を隠そう僕は、らでんさんの大ファンなのです!そんならでんさんが話す、美術に関するあれやこれやの話を聞いているうちに、

「自分も実際にこの目で美術品を鑑賞してみたい!」

という気持ちが、日に日に強まっていったのです。(気になった方は、らでんさんのXをチェック!)

 そんなわけで、僕の家から比較的近くにある「名古屋市美術館」に訪れるべく、電車に揺られながら名古屋へと足を運んだ次第であります。

 名古屋市美術館は、名古屋駅から徒歩で30分程度の距離に位置する美術館で、やはり県庁所在地にある美術館ということで、初心者の僕でもわかるほどかなり大規模な美術館で、建物の外装から漂う荘厳な雰囲気に、一瞬飲まれてしまいそうになるほどでした。(ちなみに地下鉄など利用すればもっと短時間で辿り着けるのですが、個人的には名古屋の街並みを眺めながら歩く30分間も含めて楽しいひとときでしたね!)

 どうにか美術館に辿り着き、ちょうど現在行われている「福田美蘭展」のチケットを購入。常設展のチケットよりも値が張りましたが、その金額以上の価値が今回の来訪にはあったと、自信を持って言えます。大変素晴らしい展覧会でした。

 そもそも僕は、今回福田美蘭展に訪れるにあたって、彼女に関する情報等は一切仕入れずに臨むことにしていました。確かに事前の情報があれば、より一層作品に対する理解が深まるだろう、という考えはありました。しかし月並みな表現ではありますが、美術とは「捉え方次第で様々な形に変質する」ものであると、美術鑑賞初心者の僕は思っておりました。よって今回は、予備知識皆無の状態で美術鑑賞に臨んだわけであります。結果的にどちらが正しかったか、それは分かりません。しかし、少なくとも今回の経験が、自分にとってかけがえのないものとなったのは間違いありません。僕はひと通り鑑賞を終えて、「また来たい」と、心の底から強く思うことができたのです。

福田美蘭展

 さて、何もかもが初めてであるため、チケットの購入から少々手間取るところから、僕の美術鑑賞は始まりました。スタッフさんが優しく説明してくれて助かった…。 

 足を踏み入れて一番最初に展開されたのは、福田美蘭さんオリジナルの作品たち。(あえてオリジナルと記述しているのは、今後の展示の中に既存の作品に対する福田美蘭さん独自の解釈を当てはめた作品が多く登場するためです)

 中でも僕の目を引いたのは、青い着物を見に纏った福田美蘭さん本人の人物画でした。

 残念ながら僕の脳みそは解説文の全てを暗記するほどの能力を持ち合わせていないため、今後の感想においてもかなりうろ覚えな部分があると思いますが、この絵画は、重要な文化財であることから着ることが叶わない着物を、福田美蘭さん本人が着ているという絵でした。解説文には、「着ることのできない着物も、絵画であれば、実際に着ることが叶う」といったような記述がされていました。

 絵画とは、想像のものであれ、目で見たものを模写したものであれ、平面に表現するという点において、独自の解釈を取り入れたり、自分だけの見え方をそこに表現する、ということが可能です。よって福田美蘭さんは、実際には着ることができない着物を、絵画上では着ることができる、ということに目をつけ、その作品を描かれたそうです。

 確かにその通り、見たものを寸分違わず表現することももちろん可能とはいえ、実際には不可能であることを、絵画では可能にすることができます。そう言われれば当たり前のようなことですが、僕はやはり、この発想をどこか忘れていたような気がします。どれだけリアリティを追求した作品であれ、自分だけの解釈、見方をそこに落とし込むことで、目で見るよりもはるかに鮮烈に、作品を作り上げることができる。目に見えることだけが全てはないんだぞと、雷に打たれたような衝撃を感じました。当たり前に見えているものだけが全てではない、そこに美術の本質があるのではないだろうか。そんな風に、僕は思ったのです。

 また、先ほども記述したように、福田美蘭さんオリジナルの作品に加え、既存の有名な作品を独自の視点で描いた絵画等も多く展示されていました。ゴッホ、マネ、カーロ…絵画に限らず、様々なものが福田美蘭視点で再現されており、彼女の芸術観を楽しむことも、さらには有名な作品の理解を深めることも同時にできるという、これまた今までにない体験をしました。

 作品を作る人がいて、それを観る人がいる。しかしそこに、すでに完成した作品が介入してくることで、既存の作品、作者に対する考え方、福田美蘭さんに対する考え方までも揺るがすような、不思議な感覚を味わうことができました。

 気づけば2時間と少し…僕はかなり長い間、福田美蘭展にいたようです。作品に見惚れている間に、気づけばあっという間に時が過ぎていました。「これが美術館鑑賞か…」僕は初めての体験に、胸が躍るような心地でした。日々忙しない生活を送る僕は、どうにもこの【気がついたら時が過ぎていた】というような体験を、忘れ去ってしまったような気がします。その感覚を呼び覚ましてくれる方法。美術鑑賞は、僕の中から抜け落ちようとしていた、時間を忘れて何かにのめり込む、という感覚を、がっちりと繋ぎ止めてくれたようです。

常設展

 その後、常設展も鑑賞しにいきました。そこでは、かの有名なモディリアニの「おさげ髪の少女」をはじめとした有名な絵画、作品を目にすることができました。中学時代、教科書の中でしか見たことのなかった作品たちが、実際に目の前にある。その上油彩ともなると、教科書では感じられなかった凹凸の一つ一つまで、しっかりと感じることができました。これもまた、この目で美術品を鑑賞するということの良さの一つなのかもしれません。

 中でも僕の印象に残っている作品は、いわゆる「ステンレスアート」といった部類になるのでしょうか?金属で作られた、立体の作品たちでした。

 一枚の巨大な板が、ところどころ不規則な図形に切り取られていたり、錆び付いていたり。その意図一つ一つを読み解くことは、おそらく作者でなければ、いや、作者でさえも困難なのではなかろうかと、そんなことを思いました。しかしその難解さが、かえって良いのではないだろうか。一つの枠にとらわれない、どうとでも捉えられる、意味があるようでないような不安定な形。そこから感じられる何かを、自分なりに解釈すること。これこそが美術鑑賞の本質なのではないかと、そんなふうに思ったのです。きっとそれは、立体物であれ絵画であれ、全ての芸術作品において言えることなのではないかと。

さいごに

 さて、ここまで拙い文章で書いてまいりましたが、以上が僕が名古屋市美術館を訪れ、数々の作品を目にしたことで得た、様々な感想でした。正直ここまで書いて、一周回って自分の感情がよくわからなくなってきました。正解はいくつもあり、どれもが正しく、また間違っている。答えがないということは、どことなく不安を感じさせるものです。しかしどういうわけか、僕が今日感じたこのモヤモヤとした感覚は、人生を生きていく上でとても尊く、素晴らしい感覚なのではないかと、そんなことを考えました。答えがないからこそ、自分だけの正解を探してみること。それが的外れで合っても、そんなことは関係なく、純粋に一つの作品に向き合うことの面白さ、大切さを学ぶことが、今回の美術館訪問からできたと思います。

 長いこと書きましたが、結論としていえば、

美術館、いいね

 これにつきます。インターネットが普及し、見たいものは大概見ることが可能になった今の時代にこそ、実際にその場所に足を運び、頭を使い、体全体で作品を感じることこそ、今の僕たちに必要なことなのではないでしょうか。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました!

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